研究紹介

経済学研究科 経済学専攻 玉木俊明教授 インタビュー

「海と近代世界システム―ヨーロッパはなぜ世界を支配できたのか」

イスラムを避けて、まずポルトガルが海へ進出

ヨーロッパは近代になると世界を支配することになりますが、私はなぜそのようなことが可能になったのかということにとても関心があります。しかもヨーロッパの拡大は陸上ルートでなく、海上ルートを通じてなされたのです。近代世界システムの中でヨーロッパと海の関係を考えることは、世界史上極めて重要な意義があると考えています。しかし、この分野の研究は日本だけでなく、ヨーロッパにおいてもかなり少ないのが現状です。今回はこの研究について私の思うところを述べたいと思います。

もともとヨーロッパという地域は、自然環境が大変厳しいところでした。食物が豊かなアジアと違って、ヨーロッパはおいしいものが少なかったのです。イタリアのパスタやドイツのジャガイモなども海外との交易でもたらされたものです。ヨーロッパは海外に拡大したからこそ豊かになったのだといえるのです。その負の側面として、アジアやアフリカ、アメリカ大陸の国々が犠牲になりました。ヨーロッパの人々はそう考えていませんので、この点においてヨーロッパの研究者と私の間には決定的な意見の違いがあります。

ヨーロッパは長い間、異文化の地域に囲まれていました。具体的にはイスラムの勢力がとても強かったのです。7世紀にムハンマドがイスラム教を創始して以来、地中海はほぼイスラムの海となりました。その後はモンゴル帝国もやって来ましたが、一番重要なのはオスマン帝国でした。オスマントルコによって、ヨーロッパはかなりの地域をイスラム勢力に取り囲まれてしまうのです。

イスラムの力が非常に強かったので、ヨーロッパは陸地でなく、海から拡大していきます。まずポルトガルが海上に発展します。アフリカ南部のヌビアで金が取れたのですが、ポルトガルはイスラム教徒の手を経ずに手に入れたかった。そのためにアフリカの西回りでヌビアに行くことになったのです。これが基本的にヨーロッパの拡大の始まりです。15世紀初めのことでした。

大西洋経済はアフリカの奴隷貿易から始まった

書籍

金の貿易が16世紀に入って衰退すると、ポルトガル人とスペイン人が協同して西アフリカから奴隷をスペインの植民地がある南米に送り出したのです。そしてその奴隷を使って、鉱山を開発しました。17世紀になると、ブラジルで砂糖を生産するようになりました。そのブラジルの砂糖の製法は、ユダヤ人のネットワークを使って、ブラジルからイギリスやフランスのカリブ海の植民地に広がりました。大西洋経済は基本的に砂糖中心の経済であり、西アフリカから連れてこられた奴隷によって生産するというシステムが出来上がりました。

砂糖によって、ヨーロッパの生活水準が向上します。砂糖は非常に高エネルギーの食物です。当時食うや食わずの生活をしていた人々にとって、砂糖が入ってくるということは急激に食生活のカロリー数が上がるということを意味しました。ヨーロッパ人の生活水準が砂糖によって上がったのです。そのような経済システムによってヨーロッパは富を蓄え、やがてアジアにやって来るのです。大西洋経済の形成には3世紀ほどかかったのですが、その形成によってアジアを支配することができたのです。

この砂糖中心の経済システムの中で、イギリスだけが砂糖以外に綿をつくりました。北米南部から綿花を輸入し、国内で綿織物に加工して、国内で販売していたのですが、やがてそれをアジアで売るようになります。それ以前の綿織物の生産地はインドでしたが、インドの手織りの綿織物をイギリスが機械織りの綿織物で駆逐していきました。

そのような経済システムはもともと国家とはあまり関係なく、商人たちが独自でつくり上げてきたものでした。奴隷貿易をみてもそのことが分かります。16世紀初めにはスペイン領の植民地にポルトガル船が奴隷を運んでいましたが、アフリカに船で行く時にポルトガル商人とスペイン商人が共同で航海していて、その延長線上で新世界であるアメリカ大陸との貿易でも協同したのです。スペイン商人とポルトガル商人の間には、基本的に国家というものが関与しなかったと考えられます。

国家の力を背景にイギリスがヘゲモニー握る

それに対して、新参者であるイギリスは国家の力がないと市場に入れなかったので、国家の力を基に大西洋貿易を伸ばしました。イギリスは一般的には産業革命を自生的に起こしたといわれていますが、私は国家の力が非常に強かったということが重要なのだと考えています。それによって大西洋経済を最終的に成功に牛耳る国となり、その力を背景にアジアにやって来たのです。

しかもイギリスは19世紀になると、世界一の海運業国になります。世界で一番船をたくさん持つ国になったのです。イギリスの船でイギリスの商品を運ぶわけですから、すべての利益がイギリスにもたらされるのです。これを私はドラえもんのジャイアンをもじって、「ジャイアンのシステム」と呼んでいます。つまり「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」というシステムをつくり上げたのです。

イギリスはアジアに進出する際、一緒に電信網を持って行きました。特に海底ケーブルが重要です。1850年頃にドーバー海峡に海底ケーブルが敷設されるのですが、1871年には長崎までやって来ます。世界のほとんどが海底ケーブルによる電信網で結ばれることになります。電信の8割が1913年の段階でイギリス製なのです。つまり世界で貿易取引をしようとしたら、イギリスの電信システムを使わなければできなかったのです。そのようにインフラストラクチャーを有効に使ったからこそ、イギリスは世界を経済的に支配できたのです。産業革命がすべてはなかったと私は考えています。

イギリスは一般的にはインドや南米に鉄道を敷いて儲けたといわれますが、鉄道を敷く時に同時に電信網をつくっているのです。そうすれば、植民地でなくても電信網を敷くことで、イギリスには莫大な手数料が入ってきます。私はこれを「手数料資本主義」と呼んでいます。インフラを押さえているところが根本的な強みなのです。こうした強みは、イギリスやアメリカにはあって、日本にはないものです。電信でも船舶の保険でも何をやってもイギリスが儲かる仕組みをつくったのです。そこがイギリスの偉大で、ずる賢いところです。

もう一つ付け加えるなら、電信はもともと軍事技術です。軍事技術は商用に転用した時に初めて利益を生むようになります。また、軍事情報と商業情報は表裏一体の関係にあります。少し昔にさかのぼると、オランダは実は武器貿易が中心の国でした。オランダでつくられた武器で戦争するわけですから、オランダには相手国がどのような戦略を持っているかが分かるのです。どのようないい武器を相手国が手に入れようと、輸出すればするほどオランダは手の内を読むことができるのです。強い軍隊は単に軍事力だけでなく、重要なのは情報戦に強いということなのです。アメリカ経済はインターネットによってリバイバルしたといわれています。インターネットはもともと軍事技術ですが、それを商用技術に転用したのです。根底において現在のアメリカは19世紀のイギリスに非常によく似ているのです。

オランダは商業情報とノウハウの一大拠点に

17世紀にはオランダがヘゲモニー国家でしたが、オランダとイギリスの決定的な違いは国家の関与です。オランダは1648年に独立しますが、あの地域が急速に重要性を持ってくるのは16世紀に入ってからです。「母なる貿易」と呼ばれたバルト海貿易が、オランダの繁栄の礎となります。当時、人口増による食糧不足でヨーロッパ全域で飢饉が起こりました。その時にバルト海地方のポーランド産の穀物を輸送したのがオランダでした。当時の資本主義の重要なポイントは生産ではなく、物資を運ぶ流通にありました。その流通を支配したのがオランダだったのです。

当時は宗教戦争があり、国家や都市ごとに宗教的な対立が激しくなっていました。ところがオランダのアムステルダムは宗教的にも寛容な土地柄であり、ヨーロッパ各地から多くの人々が集まり、人口が急増しました。その中にはユダヤ商人たちも含まれていて、ヨーロッパ各地の商業情報がオランダに集まりました。アムステルダムがヨーロッパの商業情報の拠点となったのです。

アムステルダムに来て、さらに他の場所に移っていく人も多かったのです。アムステルダムの住民のうち、そこで生まれた人は半分くらいで、半分の人がどこからかやって来て、一世代か二、三世代住んで、またどこかに移り住みました。商業情報の中心ということは、そこの商売のノウハウのレベルが一番高いということを意味します。そのノウハウさえあれば、よそへ行っても成功できるわけです。しかも、アムステルダムにいるだけで商業的なネットワークの広がりを利用することができます。また、いろんな商人がアムステルダムにやって来て、そこからよその場所に移動するわけですから、西ヨーロッパ全体が均質な商業空間になったともいえるのです。その結果、ヨーロッパにおける商業取引のコストは大きく下がりました。

商業情報が安く手に入るようにもなりました。グーテンベルクによって発明された活版印刷技術で、商業情報が印刷されて出回るようになりました。経済学的にいうと、市場への参入障壁が低くなって、誰でも簡単に商売ができる社会になったのです。そのために西欧は経済成長し、オランダ人はそれに貢献したといえるのです。ただ、オランダ商人は自分たちの利益を最優先した結果そうなったのであって、それをコントロールするような力はオランダという国家にはありませんでした。

オランダ商人はまた、オランダ国内に投資せず、もっぱらイギリスに投資しました。その理由は正確には分からないのですが、戦争の時代ですからイギリスは島国なので陸続きの国よりも戦争によるリスクが少ないと考えたと思われます。この結果、オランダでは商売は栄えましたが、そのために国家としては失敗することになります。

イギリスは「保護貿易」で、富を国内に蓄積

インタビュー風景

イギリスはオランダに比べて出遅れていたので、対照的に国家がより強く経済に介入して経済成長を促進する必要がありました。イギリスがやったことの中で特に重要なのが、一般的には「保護貿易」といわれる保護海運業政策です。1651年に航海法という法律が施行されました。これは商品を輸入する時にイギリス船か当事国の船しか認めないものでした。航海法はオランダ船の排除を目的としたものだったのです。実際には商品を運ぶのはオランダ船の方が安かったのですが、イギリスはあえてこの法律をつくりました。当時の人々はそんな法律をつくってイギリスはオランダに勝てるのかと思ったことでしょう。

では、なぜイギリスは航海法を定めたのでしょうか。イギリス帝国は拡大を続けていたので、帝国と植民地の関係で自己完結したシステムを構築することができました。本国と植民地間の貿易では、第三国の関与を考える必要がないので、十分に儲けることができたのです。こうしてイギリスは大英帝国が大きくなるにつれて、富が国内に蓄積されるシステムをつくり上げていったのです。

海運業の利益は、当時大変大きいものでした。英語ではシッピングが海運で、トレードが貿易です。トレードは物と物との交換であり、シッピングは物を運ぶことです。オランダはトレードよりもシッピングで儲けていました。いろんな国の商品をオランダ船で運ぶことによって、その手数料収入を稼いでいましたが、その手数料が大変大きかったのでそれをイギリスは自分のものにして、海外に富が流出するのを食い止めようとしたのです。イギリスは国家が経済に介入して、人為的に経済発展を実現しました。これに対して、フランスは海運業をオランダに任せていました。だから富が国外に出てしまったのです。フランスはどこの国籍であれ、安い海運業者を使うほうが儲かると考えたのです。

システムとルールつくる国が、すべてを支配する

大英帝国はどんどん拡大を続け、19世紀の終わりの頃には世界帝国になりました。その時にはイギリスの船が一番多いわけですが、海上保険はイギリス、電信もイギリスという時代になります。1870年頃にはアメリカやドイツで第2次産業革命が起き、重化学工業が発展して工業生産高で負けるのですが、それでもイギリスのほうが経済力はありました。世界の商品はイギリス船で運ばれ、その積荷にはイギリスの保険が掛けられていて、イギリスの電信システムを使って取引が行われ、決裁もロンドンで行われるようになりました。どこの国が工業発展しようが、それはお釈迦様の掌の上のようなイギリスのシステムの中で起きたことなのです。イギリスが経済上のあらゆるルールをつくり、他国はそのルールに従わなければならなかったのです。

イギリスは衰退したといわれますが、なかなか没落はしません。テニスのウインブルドン大会には、イギリスにはいいプレーヤーがいないので、外国人選手が大勢やって来てプレーします。これは「ウインブルドン現象」といわれますが、じゃあそれが良くないのかというと、観光収入とかテレビの放映権とか結構いい収入になるのです。イギリスはそれによって儲かるのです。テニス興行におけるイギリスの経済的な勝利は、世界一の海運国になった時と同じようにウインブルドンというシステムをつくったことによってもたらされるのです。

これまでポルトガルがイスラム勢力を避けて初めて海上進出してからオランダの時代を経て、そのオランダに勝ったイギリスがヘゲモニー国家として君臨するまでを海事史を通してみてきました。海運、貿易の歴史を研究するには、複数の国の資料を突き合わせてクロス・レファレンスする必要があります。そのためには5カ国語ぐらいが読めて、英語だけは話せることが理想です。また、粘り強くチャレンジすることを厭わない精神力も求められます。国際関係の歴史に興味のある方は、ぜひ未開の研究領域が残る海事史に挑戦してほしいと思います。

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