建学の心

 

世界から尊敬される日本人になってはじめて全世界の平和と幸福に貢献できる


日本の美しい道統を受け継ぐ人づくり

 大学をつくる。日本の美しい伝統を心の奥底にしっかりと刻んだ人材をそこで育てる。戦後の隠棲生活の中で先生の歩む道は決まっていた。70年安保を前に、学園紛争が全国の大学を揺さぶっていた。だが、大学の母体はなかった。先生の構想は、全くのゼロからの出発であった。高名な天文学者であり、教育への熱意は誰にも負けない。友人たちが寄付金を出し合い、創設の資金を積み重ねた。あの荒木さんがつくる大学なら、安心して子弟を託せる。新設大学としては、例をみない多数の志願者が押し寄せた。著名な教授陣。総合大学の基盤は盤石であった。

写真は、開学時の本館(左方)を背に総合大学づくりの構想を描く先生

●写真は、開学時の本館(左方)を背に総合大学づくりの構想を描く先生

 

世界の頭脳と魂に出会って深い感動を得よう

 世界水準を抜く学者に接することが、学生の若々しい頭脳と心にとって必要。優れた学者の魂に直接に触れる機会があれば、影響が学生の心の奥底に刻まれて行くであろう。潜在意識として心にしみ入って広く多角的な理解力、推理力、判断力として働き、将来の大きな力になるに違いない。実社会で、創意工夫、企画、決意、実行の原動力になるであろう。そう考えて先生は、開学直後から海外の碩学を招いた。とりわけアーノルド・トインビー博士(英国)を尊敬した。学説に対する批判にこたえ「再考察」し、晩年に壮大な歴史観をうちたてた謙虚な態度に魅せられたのであった。

写真は、本学でトインビー博士、ベロニカ夫人と語る先生(右端)

●写真は、本学でトインビー博士、ベロニカ夫人と語る先生(右端)

 

コンピュータは次代への贈り物

 先生は、世界の科学技術の動向を注意深く見守っていた。コンピュータ時代の到来をいち早く予測して、開学の直後から導入とその活用に熱心であった。開学の翌年、計算機科学研究所と計算機センターを設置、さらに理学部に応用数学科(昭和46年、計算機科学科と改称)を開設した。コンピュータ専門の学科としては、日本初であった。昭和42年、ホストとしてTOSBAC-3400(写真)を導入した。先生は、開学の直後であり、資金運用に苦しい時期であったにもかかわらず、巨額の購入費を即決で決めて、こう言った。「日本の次代を担う人たちへの私たちの贈り物だよ」。

コンピュータは次代への贈り物

 

神山に輝くキャンパスは私たちのすべてだ

 先生の建学の心は、いつの時代も学生に素直に受け入れられてきた。
 自分たちの大学は、自らが守る。その気概。第1回神山(こうやま)祭で、大文字に見立てた火文字が、キャンパスを赤く染めたとき(写真)「知性の城であるべきキャンパス」を暴力や独断的な判断で汚してはならない、その思い一筋に結ばれた仲間の歓喜の声が、伝統の神山祭に昇華した。
 かつて学園紛争のとき、学生と教職員が自主的に集まり泊り込みでキャンパスの警戒にあたった伝統は、いつまでも生き続けている。

神山に輝くキャンパスは私たちのすべてだ

 

学祖 荒木俊馬先生の前半生世界に開いた留学生活


和魂洋才教育の濟々黌に学ぶ

 熊本市碩臺小から濟々黌へ。中学校長の父、竹次郎(東京高師卒)は、先生(1897−1978)が小学校を出た明治40年、39歳の若さで急逝した。母、記寿さんは幼稚園教師の職を得て、俊馬、千里(五高−京都帝大医学部卒。のち京都帝大医学部教授、日本脳外科学会会長)、亨(五高−京都帝大理学部卒。のち満州国立大学教授)の三兄弟を育てた。先生は熊本の名門中学、濟々黌に進んだ。質実剛健、自主独立、和魂洋才を建学のこころにした中学生活は、先生の教育観の骨格になった。大正4年、広島高等師範学校理科へ進み、天文学の道を歩み始めた。

写真は、京都帝大時代に令弟・千里氏(左)とともに

●写真は、京都帝大時代に令弟・千里氏(左)とともに

 


アインシュタイン博士の知遇を得る

 京都帝大学生時代。大正11年、アインシュタイン博士が来日。先生は恩師であり、やがて義父になる新城新藏教授(のち京都帝大総長)とともに、東京帝大での連続6回の集中講義を聴講する機会を与えられた。さらに京大での講演のとき、全学生を代表して流暢なドイツ語で挨拶して博士の注目をひいた。昭和4年から6年にかけて、ドイツ・ベルリンに留学し、そこで博士のもとで相対性理論の指導を直接に受けた。「世界の頭脳に接したこと。はかり知れない財産であった」と、後年の先生の弁である。

写真は、大正デモクラシーのなか、熱烈な歓迎を受けて来日したアインシュタイン博士の講義風景

●写真は、大正デモクラシーのなか、熱烈な歓迎を受けて来日したアインシュタイン博士の講義風景

 

天文学の権威は語学の天才

 京都帝大の助教授時代。「プロフェッソーレみたいにイタリア語をはやく覚えた人に出会ったことがない」。昭和4年、在外研究員として先生は、海路で欧州へ入った。異常寒波で、ドイツに凍死者続出と聞き2カ月間、ナポリとローマに滞在して、イタリア語に熱中。すさまじい上達で、教師役の下宿の主人を驚かせた。やがてベルリンで研究生活、世界に視野を広げる体験を持った。本学創設のあと、教員陣に留学の機会をつくり、送り出した。講義に穴があくと、物理・数学はもちろん、ドイツ語や中国語の講義を代講した。

写真は、京都帝大天文教室屋上のドーム前の先生(助教授時代)

●写真は、京都帝大天文教室屋上のドーム前の先生(助教授時代)

 

宇宙の神秘を幼い子らに語る

 隠棲の時代。太平洋戦争で日本が敗れた。先生にとっても衝撃は大きかった。いまは静かに瞑想するときである。これからの人生を家族と共に考えよう。直ちに先生は辞表を出して、一家をあげて兵庫県境の夜久野に移った。晴耕雨読と執筆の日々。少年少女向けの天文学の啓発書『大宇宙の旅』は、松本零士氏の『銀河鉄道999』のヒントになった。長男の宇宙物理学者、雄豪氏(京都産業大学名誉教授)と共著で『現代天文学事典』を完成させた。昭和29年、大谷大学教授に招かれて帰洛した。本学創設の大事業が、先生を待ち構えていた。



写真は、隠棲先の夜久野で。食糧難の戦後、昼は芋畑を耕し、夜は読書と執筆に励んだ

●写真は、隠棲先の夜久野で。食糧難の戦後、昼は芋畑を耕し、夜は読書と執筆に励んだ

 

諸君、胸を張れ。わが大学は一流である学生に溶け込んだ総長の日々


市中パレードに学生の成長をみつめて

 細切れの知識は、いらない。まず心構え。大学は社会の指導的な人材を育てる。だから、まず健全な精神をやしなう教育であるべきだ。指導者になるべき本学学生は胸を張って、4年間を送ってほしい。
 秋の市中パレード(右上)。学生は京都産大の応援團旗、部旗を掲げて行進。威風堂々の姿を先生はいつも沿道で手を振り見守った。
 京都産大野球場開き。初対戦の相手は慶応義塾大学。始球式(右下)。東の慶応、西の産大といわれる日の近いことを祈って渾身の一投、その球筋は21世紀に入ったいま、ストライクゾーンにおさまろうとしている。

市中パレードに学生の成長をみつめて 京都産大野球場開き

 


学生の輝きは先生の宝物

 先生の学問、研究にのぞむ表情は厳しく、教室を離れて学生に接するときには温容、慈父のようであった。「どこの大学生にも負けない人間にして世の中に送り出す。諸君は、京都産業大学の学生にふさわしい身だしなみ、態度、行動で、堂々と京の街を闊歩せよ」。教授陣は私が選んだ一流である。それに見合った施設づくりは、私の仕事であり、責任をもってととのえる。諸君、この大学を一流につくりあげようではないか。草創期の入学式(右)で先生はそう呼びかけつづけた。

学生の輝きは先生の宝物

 

誇りを持とう王道を歩くのだ

 先生の蔵書は、天文学や物理学の専門書だけではなかった。文才に恵まれ語学のほかに書画音楽の芸術分野にも並々でない才能を示した先生であったから、幅広いジャンルに及んでいた。本学の創設にあたり蔵書は寄贈されて、荒木文庫として本学の図書館におさまった。書画、骨董の収集家でもあったが、大学創設の資金不足を補うために売り払われた。荒木家に残ったのは、教育にかけた先生の魂であった。「やぁ、おめでとう」。卒業式や修了式(写真)で、先生は学生や院生の若々しい手を握りしめた。そこには生涯をかけて築いた宝物が輝いていた。

誇りを持とう王道を歩くのだ

 

学生の魂に熱く語りかけて

 先生は、学生が好きだった。学生もまた、先生のそんな思いに応えた。コンパがある。幹事が吉田山の麓の総長宅へ出掛ける。「おーい、酒をもってきなさい。学生が待っているんじゃ」。妻の京子さんが包んだ一升瓶をぶらさげて、嬉しくてたまらない顔でコンパの席に着く。大いにしゃべり、仲居さんの遊びの誘いを受けて立った。酒豪で聞こえた飲みっぷりは、若い学生にひけを取らなかった。揮ごうを頼まれると「祭酒 荒木俊馬」としたためた。後年まで『祭酒』を雅号と信じたものがいたが、雅号は「疇山(ちゅうざん)」。天文学者の意味であった。

写真は、叡電元田中駅に近いコンパ会場「天寅」での先生

●写真は、叡電元田中駅に近いコンパ会場「天寅」での先生