横尾 謙 さん

略歴

1976年 広島工大附属広島高校(現 広島なぎさ高校)卒業/本学入学
1979年より1年間 スペイン:サラマンカColegio de Espana,Madrid大学等へ私費留学
1981年 外国語学部 言語学科 スペイン語専修卒業(国際関係コース)
1981年 旧 日立家電(Hitachi Sales Corporation)入社、
1984年 Hitachi Sales Corp. Dubai office駐在
1987年 International Hitachi Sales de Panama S.A.駐在
1988年 Hitachi Electronica. Costa Rica .に避難
1995年 日立製作所に合併・転入
2003年 日立ライティングに分社・承継入
2009年現在 海外営業責任者
(2009年4月現在)
Hola! 現在、私は日立の光源(ランプ)を全世界に輸出する仕事をしております。
勿論、「世界の日立」ブランドで世界中に販売していますが、競合する有名メーカーに相手先ブランド(OEM)で売込むビジネスも担っています。商談の為、年に二回ほど、New York,Madrid,Bilbao,Amsterdam,Roma等の欧米の都市を中心に、世界一周の顧客巡回をしております。今までに、公私で渡航した国は50数カ国ほどです。

日々の業務では英語が中心ですが、スペインや中南米の顧客、あるいは、アメリカに行く時はスペイン語が重宝します。
イタリアでは、日常会話程度は出来るようになりましたが、類似のスペイン語との切り替えに少々手こずります。

学生時代

私は、美術とイタリアが好きでしたが、当時人気のあったスペイン語を学ぶ為、京産大に入りました。
京都という都市の魅力と、総合大学で色々なことを学びながらスペイン語がマスター出来るというのが、選択理由です。神山でのキャンパスライフは、日本中から学生が集まり、しかもクラスは少人数で、実に和気藹々と楽しいものでした。(先日、30年ぶりのクラス会に出席しました。先生方も含め旧交を温めました)

スペイン人神父の先生による毎日の書き取りテストと会話練習、たまの赤ワインにフィエスタ。今井先生にはスペイン語会話クラブで鍛えられました。語劇や弁論大会は良い思い出です。三好先生の小人数対象の徹底したLLでの発音特訓、薮中先生の親身になって下さった留学、就職アドバイス等、大変お世話になりました。
アットホームで面倒見の良さが外国語学部の長所でした。

他にも勝呂 忠先生の西洋美術史概論で憧れのイタリアの話や、美術作品の説明に熱中しました。
岩倉の下宿で絵を描いたり、先輩や友人と語り合ったり、読書に音楽鑑賞にスポーツにと、遊び中心でしたが、充実した毎日でした。又、国際関係論のゼミは知的好奇心を刺激されました。これが総合大学の魅力です。

スペイン語専修は、2クラスで10人ほどの男子学生のうち、小生を含め4人が留学しました。当時は交換留学制度も無く、単位の相互認定も無かったので、三年生を終了した時点で休学し、私費で世界中に散らばって行きました。

留学時代

サラマンカのマヨール広場
30年前の留学は、今ほど手軽でもなく、情報が少ないので手探りの渡航でした。
クラスの先陣を切って留学しましたが、苦労の連続でした。
伊丹空港で学友達に見送られ、アンカレッジ、パリ経由でマドリードまで30時間。
目的地の中世の大学都市Salamancaまでは、結局、二日以上もかかりました。
当時のスペインは、まだ貧しい国で、インフラが整っておらず、日本からの送金確認に何日も銀行に通う必要がありました。語学学校の先生の一月分のサラリーで、やっと日本製のラジオが買えるという有様でした。然しながら、貧しくても文化的には豊かで、歴史のある国の魅力に溢れていました。

世界中から来た若者と、一緒にスペイン語を学ぶのは楽しいものです。朝に夕なに美しいPlaza Mayorに集い、カフェテラスで日がな一日、友と過ごすのです。最高に贅沢な日々でした。
留学中は、他国の人々に自分の考えを伝える必要性と難しさを学びました。
言葉が話せるというのは、ひとつのコミュニケーション・ツールにすぎません。日本人としてのアイデンティティというか、日本の文化をはじめ、自分の物事に対する考え方、あるいは情報をいかに発信し、相手に伝えることが出来るか、それが肝心だと痛感しました。
この頃に培った人間関係と、新しい環境に適応する力が、今の自分の礎になったと思います。

日本人との接触は避けていましたが、後からクラスメイトの二人の親友が加わったことは大変心強かったものです。その後、Salamancaに京産大生6人が集う時期もあり日本の大学では一大勢力でした。秋の新学期にはマドリード大学と寮で、他の大学から来ていた親友も出来、30年経った今でも交流が続いています。

かけがえの無い友を得ることが出来たのが、留学時代の賜物です。

思い出深いのは旅行です。夏休み、冬休みには欧州全土とスペイン中を旅しました。
未知の場所への探訪は大変貴重な体験でした。Geneve大学やOxford大学訪問も良い思い出です。
スイス人の旅行家とピレネーの山、Pic d'Anetに登ったり、ドイツの友人宅に長期滞在したり欧州の生活、文化に触れることができた事は忘れられません。

復学と就職

スペインで、研修・留学中の社会人と知り合ったことは大変刺激になりました。
漠然と、自分も海外に関わる仕事をしたいという思いが強くなっていました。
海外生活の自信もつきましたし、スペイン語を使わなくても、何語でも良いと思いました。
幸い、外国語学部では、第3、第4、第5外国語も履修できたので、ポルトガル語、フランス語、イタリア語を少しばかり、帰国後に学びました。
就職先は海外駐在可能な仕事に絞って探しました。当時は自動車、家電が輸出の花形でした。
そこで、輸出額が常に上位を占めた、日立の家電を国内外に販売する上場企業に入りました。

会社生活

入社してからは様々な研修を受け、翌年、晴れて貿易部門の中南米部に配属になりました。
当時は外語系大卒の活躍の場も多く、沢山のHispano hablantes(スペイン語話者)が社内にいました。
部内では、公私に渡りスペイン語で会話しあうので極めて強い一体感があり、ラテンの乗りで楽しい職場でした。他の会社の中南米部の人々とも交流がありました。(現在も昔の上司・先輩と親密な交流が続いているのは幸せなことです)当時、日立の家電部門が中南米で統括する海外子会社は、製造・販売を合わせて中南米全域に20社ほどありました。
チリの販社を手始めに、コロンビアにあるテレビとオーディオの合弁工場を担当することになりました。

初めての海外出張

コロンビア合弁先とのレセプション
社員として独り立ちするために、日立は入社3年目に研修発表をするという伝統があります。
その為に、中南米への巡回出張を命じられました。初めての中南米は刺激的でした。コロンビアにはスペイン時代の友人が駐在していたので、色々とサポートしてもらい、出だしは上々でした。が、その後、エクアドル行きの飛行機で爆弾騒ぎがあったり、予定していたフライトが一週間前に墜落してしまったので、代替手段として、ジープでアンデス山脈を越えたりと冷や汗の連続でした。しかもGuayaquilで大洪水の後、乗るべきフライトがハイジャックされてしまい、飛来してこないのです。
別便を丸1日待って乗ったにもかかわらず、カリブ海上空でハリケーンに遭遇しメキシコシティーに緊急着陸しました。その後ロサンゼルスで白タクに騙されたり、散々な目に会いました。成田に社用車が出迎えてくれた時は、ドライバーが嫌がるほど汚い身なりで帰国しました。
尤も、中南米でやって行く自信はつきました。

初めての中近東

駐在員交代の新聞記事
中南米の初出張から戻り、これからという時、先輩ともども中近東アフリカ営業部に異動になりました。
中近東課だけで月商20億というMade in Japan絶好調の時代で、中東がまさにブレイクし始めた時代です。
そんな折、新製品発表キャラバンを計画、実施するよう長期出張を命じられました。
ギリシアを皮切りに中近東諸国を周り、新製品の宣伝販促と商談会を実施したのですが、驚いたことに、クウェートのコンベンションで、顧客の中にスペイン語で話している一団を見つけたのです。
実はトルコ系のSefardi(セファルディ)という、かつて、スペイン帝国から追放されたユダヤ人の末裔でした。

駐在時代(中近東)

ドバイのオフィスにて
入社4年目のことです。いきなりアラブ首長国連邦U.A.E.のDubaiに駐在することになりました。
中近東アフリカの担当や駐在員は、アラビア語やフランス語出身者が多く、スペイン語専攻の自分は戸惑いました。ただ、それもいざ駐在してみると杞憂に終わりました。
灼熱の50度近い暑さは大変ですが、インフラは整っています。ビジネス、生活上も英語が通じます。
人口の85%は外国人です。駐在員事務所を任されることになったのですが、ビジネスの世界へのお披露目は、駐在員交代を派手に新聞に載せるのが現地の流儀で、翌日から商談が殺到しました。
バブルの頃は、今より余裕があり、31階にプール、1階にスケートリンクのあるHyatt Regencyのレジデンス棟に居を構え、ショーファードリブン(運転手付き)の生活がスタートしました。
当時から日本人の駐在員は多く、すぐに交友関係も広がりました。面白いのは、ライバル他社とは言え、同業のグループで集まって仲良くなるということです。電気メーカーや商社との付き合いが深まりました。(現在でもドバイOB会として、何人もの方と親交が続いています。)
駐在員事務所の仕事は、売上を上げるのではなく、現地の顧客や日本サイドのサポートが中心です。
真夜中のフライトで到着する出張者や顧客の出迎えやアテンド等、常に24時間体制で臨む必要があります。当然リスク対策も万全でなくてはならないので、脱出用航空券は常備していました。
業務内容は、営業というよりむしろ、旅行代理店と通訳と広報の様な一面もありました。
周辺国のカタール、バーレーン、オマーン等に毎月出張し、顧客と商談をするのもタスクでした。

余暇ですが、昼間にOutdoorを楽しむのは、英国人と日本人くらいです。我々はテニスに熱中していましたが、昼休みのゲームは大変です。5分ほどボールを追いかけて、15分休憩し、水分を補給するといったパターンでした。普段はランチの後、プールで涼み、Siesta(昼寝)でリフレッシュします。それからドライバーが迎えに来てくれるという生活は贅沢で、しかもラテンの生活パターンに慣れていた自分には嬉しいものでした。

バカンスとスペインでの夏休み

駐在時の楽しみのハイライトは、日本への一時帰国と、夏休みのバケーションです。
年に一度の3週間の夏休みを、ヨーロッパで過ごすのが格別な息抜きでした。
第二の故郷?のスペインは勿論、イタリア、ポルトガルなどラテンの国々を中心に欧州中を周るのです。
大名旅行とは言えませんが、学生時代には泊まることが想像できなかったホテルにも泊まれるようになりました。北イタリアのGarda湖畔の古城ホテル、アドリア海岸のリゾートのRimini やスイスのLugano、コートダジュールのAntibesのプチホテルがお気に入りでした。旧東欧はまだスリルがあったころです。
当然毎夏、住み慣れたMadridやSalamancaでのんびりと過ごしました。

突然の帰国命令と平行移動

イスラムの断食月の休暇を利用して、エジプトでナイル川下りを楽しんでいると、突然の帰国命令です。
ダイレクトにPanamaに行って欲しいが、無理なら東京に寄っても良いということで、日本に戻りました。
駐在員の交代のタイミングの関係で、中米への赴任が決定したわけです。

駐在時代(中南米)

パナマ共和国への赴任は、ドバイのそれとは随分事情が異なりました。現地子会社が4社もあり、それに付随する工場、販社が周辺国にもある為、日本人駐在員の数も多いのです。
駐在所と異なり子会社は、売上、利益をあげることのみならず、親会社への配当が要求されます。
子会社のマネージャー級で出向しても、日本人の中では末席で、ドバイで受けた待遇と比べると雲泥の差でした。かつて出張でイメージしていたものとは全く異なる、厳しい駐在生活が待っていました。

ノリエガ将軍の独裁政権下にあったパナマは、官憲のモラルも最低でした。日本人を狙い、警官が路上でチップを要求することも日常茶飯事で、あきれたことに入国審査、税関しかりです。
大手の日本企業は誘拐の危険性も高く、対応が大変でした。車の窓にはスモークを張り、通勤経路は毎日変更し、ネクタイは外してサングラスをかけて出勤するのです。
パナマというところは、ドバイよりは気温は低いのですが、赤道に近い熱帯なので年中暑く、雨季と乾季しかありません。蒸し暑さが格別で、気候的にも過酷でした。

内紛勃発

着任早々トラブル勃発でした。反政府暴動で、オフィスの周りには、ひっくり返された車が燃えており、軍が制圧に乗り出しました。急ぎ従業員を帰宅させ事務所を閉めて、日本人スタッフは真夜中まで同僚の住居に避難しました。騒乱の残る中、ホテルに戻ると周辺の建物は焼け落ちて、ホテルのロビーにはソファでバリケードが築かれていました。
翌朝は銃撃戦で出社できないという、着任早々、実に中米的な?洗礼を受けました。

カリブ海側にあるColon市のフリーゾーン商売を担当したり、米軍PXとの取引をしたり、宣伝販促等、業務は多岐に渡りました。気候が悪い、治安が悪い、人も不親切、美味いものもない、極めて楽しみの少ない生活でしたが、週末にTabogaという島に渡り、日がな1日釣り糸を垂れるというのが一番のリフレッシュの方法でした。

クリスマス、正月の休暇は待ち遠しいもので、僅か2時間半のフライトで到達する米国のマイアミは自由の楽園。日本食は会社が東京からエアカーゴで送ってくれていましたが、やはり不十分なので、マイアミで仕入れる時は、つい多めに買ってしまったものです。
バハマのNassauへのクルーズ、Key Westへのドライブ、飛び切り美味しいStone Crab に舌鼓を打ったりと、フロリダはパナマから来る者には正に楽園でした。
パナマでの生活にも慣れて来た頃、反政府の内乱は激化して来ました。

隣国コスタリカへの避難

そのうち夜間外出禁止令が出て、米国が経済制裁を開始。パナマ運河地帯の米軍基地から発信される危険シグナルの度合いが増してきました。自分と同じ超高層マンションに駐留していた米兵が、武器を抱えた重装備で階段を駆け下りていく日が来て、市中の混乱もピークに達しました。CNNのレポーターがテレビで叫んでいます。
日本大使も召還され、日本企業はマイアミやニューヨークに撤退を開始しました。
ついに、国外脱出を会社で決定し、出国ビザとワンウエイ・チケットで隣国の首都San Joseに退避しました。コスタリカは「中米のスイス」と呼ばれるだけに美しいところで、民度も高く、テレビとオーディオの優良工場があったので、そこで2ヶ月ほどの避難生活を送りました。

中南米諸国巡回と帰任

情勢が落ち着いて来て、Panama Cityに戻ってから南米を巡回しました。
「雲の上の街」と呼ばれるボリビアの首都La Pazには、強烈な印象を受けました。
民族衣装に身を包んだインディオの人々が、日立の小物を通りで商っているのです。
世界のどこに行ってもビジネスは有ると感じました。この街は標高3600m以上で酸素が薄く、慣れるのに時間がかかります。顔つきの似たIndigenaの案内で、かの有名なチチカカ湖を葦舟で渡ると感無量です。人類の悠久の歴史とは何かを考えさせられてしまいます。

チリの砂漠地帯のフリーゾーンで再輸出基地のIquiqueやAricaにも行きました。アタカマ砂漠はアラビアの砂漠と異なり、まるで月面の様に植物が一本も生えていない本格的な砂漠です。
同じチリとは言え、後に訪れる、首都サンティアゴとも全く違う強烈な場所でした。

カリブの島々も周りました。オランダ領Curacaoから、Trinidad & Tobago,Antigua,Barbados,St.Martin,Dominica,Puerto Ricoとプロペラの小型機で顧客を巡回しました。
この世の楽園の様に美しい島々と海、欧米人が憧れるのも頷けます。
顧客の中にはドバイに親戚のいる印僑や、サラマンカ大学出身者も居て、縁というものを感じました。マイアミで、商社の友人に会ったところで突然帰国の辞令が出ました。
その結果、不幸中の幸い、米軍のパナマ侵攻とノリエガ将軍のマイアミへの収監の前に無事日本の地を踏むことができました。

そして現在

帰国してからはトルコ領キプロスやギリシャ領キプロス向け電子品の輸出、トルコでのテレビの合弁生産を担当しました。
一時営業を離れ、中国・アジア向けの販売企画と宣伝販促でカタログ作成に従事したり調達会社への出向を経て、現在はライティング関係の新会社で海外営業を任されています。
今まで馴染みのあった家電ビジネスとは販路も製品も全く異なり、戸惑う部分もありました。

従来の様に子会社相手の取引ではなく、直接他社に売り込む直需ビジネスが中心の為、世界中の顧客を訪問し、ダイレクトに売り込むのです。大きなメーカーから中小の輸入業者、大都市から田舎まで、所謂「どさ回り」の御用聞きビジネスです。
アメリカ、メキシコ、ベネズエラ、ブラジル、アルゼンチン、チリ、スペイン、ポルトガル、イタリア、スイス、ドイツと一ヶ月の巡回商談で、初めて世界一周を体験しました。
それからは、欧米を中心に、年二回のペースで世界一周の出張をしております。
シカゴの貧民街にある客先で、冷たく門前払いにあったりと、辛い営業も多々あります。逆に、大手の注文を取った時は、下戸の自分でも乾杯したくなります。

同行者がいない時には、週末を持て余すことがありますが、各地の美術館を訪れたり、趣味の写真でリフレッシュしています。スペインには頻繁に行きますので、週末が重なる場合、学生時代の友人や、他社の駐在員の友達に会ったり、パラドールを巡るのが楽しみです。

さて、余談ですが、日立は外国語教育には熱心で、eラーニングの他、外国語学校もあります。
かつてはスペイン語も学べましたが、現在は英語と中国語です。私も英語の二週間の合宿コースに参加しましたが、これが厳しいのです。入寮してから退寮するまで、一切の日本語は禁止。朝から晩まで外国語漬けで必ず実力がつきます。
終了試験の時、英国人教師に会話テストを受けていたところ、驚いたことに、Salamancaの同じ語学学校の同窓であることが分かり、世の中の狭さを実感しました。
英会話試験が途中でCastellano(スペインの標準語)に変わってしまい、大いに盛り上がりました。

在校生へのアドバイス

今、私が言えるとしたら、人生の時間は有限であり、大学時代という時間を大切にして欲しいと言うことです。勉学に勤しむのも良し、スポーツに熱中するも良し、趣味に没頭するのも良し、とにかく、後で後悔しないよう、納得の行く時間の使い方をされたら如何かと思います。
出来ることなら、かけがえのないAmigo(友)に出会えれば良いですね。
外国語を専攻するのは実学の強みを身につけることになります。しかし、プラスOneの何かを習得することをお勧めします。
とはいえ、大学は、社会へ巣立つ前の教育課程のひとつに過ぎません。
世の中に出てから学ぶ事はたくさんありますし、その機会もけっして少なくはありません。
要は、いくつになっても学ぶ姿勢が必要だと思います。

Power Univ.に学ぶ皆さんには、知力、体力に気力を備えた、バランスがとれた産大生になっていただきたいと思います。
幸い、本学での濃密な教育と人間関係、留学中のかけがえの無い体験と交友、会社に入ってからの体験、とりわけ駐在、出張、ビジネス上の経験の積み重ねは、自分にとって様々な力をつける事が出来たと思います。
私にとっては、大学、学部と職業キャリアは、悪くない選択であったと実感しております。
今、振り返って見ると、京産大の外国語学部でスタートした海外生活がその後の人生に大きく影響しています。30年以上経っても、先生方やクラスの仲間とのお付き合いが続いています。それらのネットワークが繋がって、他大学や、留学先、勤務先に駐在先、取引先と無限に広がって来ています。これは偏に恩師、友人、家族の支えによるものが大きいと思っております。
この場をお借りして、御礼申し上げます。
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