松見 充康 さん

略歴

1957年 1月1日 大阪市中央区生まれ
1975年 大阪府立 山本高校卒業
1979年 外国語学部言語学科イタリア語専修卒業
卒業後、大阪インポート服飾商社 三喜商事入社 洋品部配属(営業、仕入経験)
1989年 MaxMara Japan 発足立ち上げメンバーとして出向(西日本責任者)
1995年 Sanki Europe srl(Milano) 代表者として海外出向
1999年 MaxMara Japan 再着任(専務取締役)
2003年 LVMH グループ FENDI Japan KK (取締役営業本部長)
2004年 Christian Dior KK(取締役 ヴァイスプレジデント)
2007年 Valentino Japan KK(CEO&代表取締役社長) 
(2008年10月現在)
元々、海外で生活することを夢見て、いつか実現したいと考え、語学には中学時代から興味を持っていた。

学生時代

イタリア語を選択したきっかけは、英語より他の外国語を勉強したいと考え、当時レナウン-ダーバンの宣伝でフランス人俳優アランドロンのカッコ良さに憧れ、フランス語学部をと考えたところ、競争倍率を見て即断念、応募要項下欄にあった競争率の低いイタリア語を選択。隣接する国だし、ヨーロッパなので、大した変りはないと勝手な解釈で受験、合格。
2回生の前期までは、普通の学生生活を謳歌し、原田教授からとことんイタリア語の文法を教え込まれ、その複雑で難しい余り、動機不純な語学選択を後悔する時期もあった。又、必須授業が多すぎて、クラブ活動は全く出来ず、入部されている人達からは、留年の話を聞かされ、決定的に断念。
2回生前期テスト期間中に父が急死し、自身初めて大きな転機を迎えた。
たちまち、経済的に逼迫し、中退の選択を迫られた所、大学には成績優秀者学費免除制度がある事を知らされ、それから大学生活を継続するためと将来の為に、かつてないほど猛勉強し、選考基準をクリアーし、3、4回生は授業料免除。(大学に心から感謝しています。)
同時に、夜間は東一条イタリア会館で夜警のアルバイトをして、イタリア語も同時に勉強出来るかもと考えたが、夜警は夜中一人だけで、イタリア人と話す機会は全くなし、自分の読みが浅かったと反省。
父を亡くした悲しみは後々も大きなものであるが、“頑張る!”精神が大学時代に培われたような気がするし、今に生かされていると思う。
文法を知り、丁寧語を知っていれば、イタリア人から感心されますよ。さすが、大学卒、イタリアでは“Dottore”と呼ばれ、急に偉くなった気分になった。

就職

成績そのものには、ある程度自信はあったが、世間は厳しく、試験会場では国公立をあからさまに区別した企業もあったし、対応の違いを感じざるを得なかった。
そもそも、就職に対してノンビリ構えていたので、解禁日(10月1日)を守り事前の会社訪問を一切しなかったので、正直焦ったが、何とか最終2社で内定を頂き、三喜商事に入社、洋品部営業に配属。当時は専門用語が全く分からず、スリット? プリーツ?等分からない話を解ったふりをして、ミスを犯したことが何度もあった。
何とかイタリア語を生かせないかとチャンスを窺っていると、入社6年目28歳で初めてヨーロッパ仕入出張(2週間)を命ぜられ、初めてイタリア、フランス、イギリスへ行くことが叶う。当時は伊丹~成田~アンカレッジ~パリ~ミラノの24時間エコノミー飛行で、到着後すぐ仕事、時差との戦い、イタリア語卒業のプレッシャーを先輩から毎日かけられ、20日間疲れ果て、最後には社員へのお土産がスーツケースに入りきらず、やむなくルイヴィトンのボストンバッグを購入、重量オーバーと日本税関で買い物限度オーバーを指摘され散々な目にあったが、今も鮮明に記憶に残る初出張。その後年間4回~5回のペースで海外出張をさせて頂き、専門用語&イタリア語の使い方にも慣れ始めた。
89年MaxMara Japanは発足当初たった1人でスタートし、三井物産からの出向者と2人、イタリア本社で2週間の研修を受けたが、92年まで正に氷河期、ブランドはコスメティックのマックスファクターに間違われ、認知度が低いために売上は上がらず、社内会議では毎月吊るし上げられ、2度退職を考えたが大学時代を思い出し、自身を叱咤激励し、周囲の人たちに支えられながら乗り越えると、93年からは200%から300%伸び始め、ブランドドリームを実体験できた。そろそろ海外駐在をと考え、会社へ志願し、95年阪神大震災の前日に家族を残して駐在の準備のためミラノへ出発、家族は無事で一安心だったが、生活に慣れるための大震災が海の向こうで待っていた。
海外出張経験で、何とかなると考えていたが、生活をするとなると大違い。日本は何と便利な国かを改めて実感した。9/21に開催された外国語学部シンポジューム(注)でも話したが、時間感覚の違い、列車、飛行機の遅れは30分~1時間までは何もアナウンスがないし、人の文句も聞こえてこない。日本なら1分遅れただけで“皆様には大変ご迷惑をおかけして”かなり大袈裟かも。
年末のカウントダウン番組では、イタリアでは時差がないはずなのに、テレビ局によって新年を迎えるタイミングがずれたり、夏時間と冬時間の変わる日を把握していない。
極め付けは、ミラノの自宅を移転し、電話の移設を電話局に依頼すると48時間後に完了するとの返事で、2日間待ったが誰も来ない。たまりかねて電話をかけると、1日の労働時間は8時間、よってこれは1週間の意味と説明を受け“なるほど”と感心させられる。
でも、担当者が来たのは8日目で、それをクレームすると、“ご主人、何も問題ない、私はここにいます。”だった。それ以後、イタリア的生活にどっぷり浸かるように努めた。
自宅は、Studio Meazza(サッカー場)から徒歩5分の所で、大きなマンションが多く、閑静な住宅街で、敷地内にテニスコートがあり、噴水がある素敵な地域であった。
但し、ミランダービー(AC Milan vs Inter Milan)が行われる時はスタジアムには85000人が収容され、道路は車で一杯になり通行不可能。その盛り上がりは甲子園とは比較にならない位で、歓声が自宅にまで聞こえてきた。
2年目までは、家族皆生活に慣れることに時間がかかったが、3年目、4年目は休暇をイタリア人の様に楽しみ、車でイタリア全土とヨーロッパの名所&美術館を見て回った。
仕事にも慣れ、イタリア語の方言も少し分かるようになり、充実した中で、取扱ブランド会社の倒産&清算、新規取扱会社設立、有名ホテルを借り切り本社主催の大パーティーを企画、プライベートでは、イタリア人友人の結婚式&お葬式にも参列し、色々な文化や行事にも触れることが出来た有意義な4年間だった。

帰国後

1999年からMaxMara Japanに再着任してから東京単身赴任が今も継続中。恐らく定年まで、東京にいなければと覚悟を決めている。
MaxMara Japanでは全体を統括する立場になり、小売と卸、アウトレットを経験する新しいページが始まり、その後2004年にはご縁があり、Louis Vuitton groupのFENDI JAPANに転職し、小売の経験を蓄積、2005年にグループ内異動でChristian Dior KK へ、ヴァイスプレジデントとして、メンズ&レディース、宝飾、子供服を統括し、オートクチュールメゾンブランドの歴史と難しさを3年間、みっちり経験できたことは、今も生かされている。
2007年、次は社長職しかないと勝手に思い込み、ご縁があって現職に9月より着任。
全てを決定する決裁権はあるが、業務範囲の無限さを痛感し、日々勉強の毎日である。

現在

ブランドは46年の歴史を持ちながら、ファンドに買収され、そしてデザイナーが交代し、大変な転換期に着任。今までもそうだが、最初の第一歩は、試練を与えられ、“しごき”に合うが、これも近い将来のためと自身のサイクルだと思うようにしながら乗り切っている。
どん底を経験させて頂いた強みを生かして、ブランドビジネスを極めることが目標。

在校生へメッセージ

チャンスは皆に与えられている、それを自分の物にするかしないか。今の苦労は必ず報われるが、苦労のアップデートがないとそれは化石となり、効果はない。
自分は一体何になりたいか、何を目指すのか?その為には何が必要か?
何れ就職されるか、独立される人が大半かと思うが、人との繋がりが重要であり、ネットワークを広げると様々な情報が手に入る。それは、ネットで入るものではなく、より現実の物で、裏情報も頻繁に入手出来る。
国際化が当たり前になっている状況で、語学力は当たり前に備わっているべきもの。
Dior時代、パリで本社役員始め、世界各国の役員が一堂に集まり、会議が始まった時、最初は共通言語の英語で始まるが、トップが登場するや否やフランス語に変わり、たちまちギブアップ。今はイタリア企業なので、その屈辱と言うか、恥ずかしい思いをすることはなくなった。
在学中に文法や、単語の蓄積をしておくと、外資系企業に入れば、給与を頂きながらルーティーンで語学のスキルを磨く事が出来る。
自分自身を盛り立てて、目標達成を果たして下さい。
世間に出てからは“経験より挑戦。”
“粉骨砕身”私が社長就任時に次男が私に送ってくれた言葉。(立場が逆??)
頑張って下さい!!!

※松見 充康氏には、9/21に開催しました外国語学部主催シンポジウムにパネリストとしてご参加いただきました。 
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