久世 篤 さん

略歴

1968年 北海道立栗山高等学校卒業
1972年 外国語学部英米語学科卒業
1979年~80年 フルブライト・ジャーナリスト研究員 兼 ニーマン・フェローとして米国ハーバード大学へ留学
毎日新聞社英文毎日記者、ギャビン・アンダーソン上席副社長、(株)電通バーソン・マーステラ上席副社長、国務大臣防衛庁長官政務秘書官(細川内閣)を経て、1995年より、久世コンサルティング事務所代表取締役。危機管理コンサルタント・広報コンサルタントとして主要企業のアドバイザーを務めるとともに (株)電通コーポレート・コミュニケーション局非常勤顧問、㈱電通パブリック リレーションズ非常勤顧問。
主な著書に「アメリカをなめてはいけない」(ごま書房)、「スーパー・ナンバー・ツー・日本」(祥伝社ノンブック)、「日本問題 ─ アメリカではどう報道されているか」(共著、かんき出版)、「企業・団体の危機管理と広報」(共著・経済広報センター)など。
(2008年1月現在)
私はジャーナリストからアメリカ留学を経てビジネスマンに転じ、それに合わせて大阪から東京へ出て27年目。内外の主要企業・団体の事件・事故・不祥事など危機管理対応専門のコンサルタントをしています。
今日では危機管理ビジネスも市民権を得ていますが、アメリカでは1970年代から注目されていたため、いずれ必ず日本でもプロの仕事として成立すると考えていました。現在では個人としては私が日本で最も多くの事案を担当してきていると思います。還暦を前に、自分で切り拓いてきたこのビジネスのノウハウの移転のため、後進の指導にも当たっています。

北海道からあこがれの京都へ、遊びが一番、毎日が観光旅行

同期生に金持ちの息子がいて、年に2~3回、海外旅行へ出ていた。英語もすでにペラペラ。海外など夢のまた夢の時代。新幹線に1度、飛行機に2度しか乗ったことのない田舎者で貧乏人の私にはこの二枚目の同期生のカッコ良さが頭にきた。「何くそ!こんなぼんぼんに負けてたまるか!」「オレもアメリカ行ったるわ!」 さあ、それからが大変、どうしたらいいやら。北海道出身と言うだけで、「家では熊を何頭飼っていた?」と聞かれ、外国人に会ったことも洋書を見たこともない男。しばし熟考、思いついたのが一石三鳥。パチンコ屋のサンドイッチマンのバイトをやめ、当時圧倒的に外国人宿泊者が多かった都ホテル(現ウエスティン都ホテル京都)のベルボーイに華麗なる転身。2回生からの3年間、授業が終了後、夕方から泊まりで翌朝まで、メシはタダ、バイト料が入るわ(チップもかなりあった)、英語の勉強にはなるわ。

フランスかぶれの同志社大生に会って一念発起

バイト仲間に一年先輩の気取った同大生がいた。フランス語専攻。いずれフランスに行って住むという。何と生意気な。「やっぱりオレもアメリカ行ったるわ!」でさらに一念発起。これを機にとことん勉強することに決めた。特に注力したのが会話、原書の読破と行きたい一心でアメリカ研究。ブリティッシュ・カウンシルにも通った(タダのセミナーだけ)。幸いだったのは個性的でアメリカ事情に詳しい教授陣がいたことと70年安保に出会ったこと。勉強を始めると、興味は尽きず「はい次」という感じで止まらない。学生運動で他大学は大荒れだったが、産大は平常どおり。休講になると普通は喜ぶのだろうが、私は「カネ返せ!」と叫んでいた(アメリカではこれが当たり前)。時間もカネももったいないと感じるようになっていた。

普通の日本人とは逆の歩み

留学もそうでしたが、ビジネスでも英語力は不可欠で、産大の4年間でその基盤をつくることができた。次の目標はアメリカ行き。それも金がないから、他人の金で。フルブライト留学の全額支給奨学金に狙いをつけ、ついでにどうせなら一番難しい大学、ということでハーバード大学に絞った。社会人になってからも仕事の合間に英語をはじめ勉強、勉強、また勉強(勉強の合い間に仕事だったかもしれない)。
念願のハーバード大学へ行き、世界中から来ている人たちに会ってビックリ。とにかく勉強する、そして遊ぶ時は遊ぶ。「オマエは日本から来たのか?」とは誰も聞かない。国籍など関心が無く、「日本の政治はなぜこうなっている?」「食糧自給率が低いのは戦後の政策で何が誤まりだったのか?」「日本の製造業の強味を3点あげると何か?」などと、求められているのは英語力ではなく、英語という共通語で伝えられる「知識」と信頼されるための「人間としての条件」そのものだった。英語は目的ではなく、手段に過ぎなかった。
それからまた大変。「こんな生意気な連中をのさばらせてたまるか!」と負けん気一色。日本の政治・経済・社会・歴史・文化の徹底的な勉強。高校時代の教科書をすべて取り寄せて繰り返し読んだ。おかげでその後のビジネスの世界に移る基本ができた。

圧倒的な努力

このように私は恐らく、普通の日本人が歩む大学入学後の道とはかなり違う、あるいは逆の年月を送ってきたかもしれない。大学受験で燃え尽きることもなく(エネルギーが余っていた)、逆に産大に入ってからがすべてのスタートで、勉強は今でも続いている。
個人個人の考え方は異なるだろうが、少なくとも将来、競争に勝ちながら自分の思うように楽しく生き、仕事をし、世界を見ながら生きて行きたいなら、4年間の学生のうちに、次のようなことをやっておく必要がある。
  1. きっかけは何でも良いから、将来やりたいこと、成し遂げたい目標をまず立てる。
  2. 目標を立てたら、他人が寝ているうちにそれを実現するための手段と近道を考え、実行に移す。
  3. 上には上がいることを知る(ハーバード大学に行けば、日本の大学生がどのくらい怠け者かいやというほどわかる)。
  4. 具体的には、将来どのような仕事につくにせよ、自己実現するためにインフラとなる知識と教養を身につけるため、読書(政治・経済・社会・歴史・文化・文章力)、英語力、世界のネット情報(英語ができなければアクセスできない)の勉強、知識を持っている人たちとの交流に時間を費やす。
  5. これらを実現するには条件が3つ。大学生活を送ることを可能にしてくれる両親などに感謝しつつ、健康が不可欠の前提として体を鍛える、そして努力、それも「圧倒的な努力」が必要。

時間は限られています。1日24時間は万人に平等でも、それを何に使うかは自分自身で決められます。自分のためにどうするか、他の大学の学生が力を抜いている時、怠けている時がチャンスです。世の中、すねても始まらない。不安がっても仕方ない。捨てばちになっても何も生まれない。自分のことは自分で、自分を守るには自身の努力で。それでなければ将来、守るべき家族も愛する人たちも守れない。
私を目覚めさせ、生き方を変えてくれた同期生のぼんぼん(交通事故で亡くなってしまいました)と、きざなフランスかぶれの同大生と、チャンスを与えてくれた亡き両親と、すばらしかった先生方と友人たちに終生、感謝しています。
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