050326 2年次・垣野佳苗訳

2005年3月26日付コンパス紙より

3月18日(金曜日)の午後3時頃、バンダアチェ市マタイエ地区のインドネシア国営放送の避難所にユニセフが建てたテントの中で、様々な年齢の30人くらいの小学生がござに座っていた。彼らの前には折り畳み机があり、彼らは一人のボランティアの女性が黒板に書いたお祈りの言葉を書き写していた。


突然2人の男の子が立ちあがり、落ち着いていた雰囲気が騒然となった。2人の男の子イスムン(4年生)とデディ(1年生)がボールペンの取り合いをし、1人が泣き出してしまったからだ。イスムンが代わりのボールペンを受け取りその場は落ち着いたが、イスムンはさっきのボールペンは僕のものだと信じているらしく、納得はしていないようだった。


これは子どもたちが学校から帰ってきた後の避難所の様子だが、ここには放課後の空いている時間を避難所の子どもたちのために使っているボランティアの高校生が少なくとも4人はいる。「私たちは子どもたちが遊びながら勉強できるようにと考えています。今日は金曜日なので宗教について教えています。ここは宗教的な伝統が強い社会ですし。」 2ヶ月前からボランティアをしている高校生ディナ(17歳)は言った。


2ヶ月前、ディナは探究心から避難所にやってきて、月曜日から土曜日の3時から6時までの教育ボランティアとして登録をした。そして彼女は子どもたちと出会い、子どもたちは彼女のことを「お母さん」と呼ぶようになった。おそらく彼女は子どもたちに母のことを思い出させるのだろう。「私は、何かここで私にできることはないか、と考えてきました。私も含めて犠牲になったのはアチェ人。何もしないでいることはできません。」と、彼女は言った。


子どもたちは普段は悲しみよりも喜びを見せることのほうが多いが、津波が原因でまだトラウマ状態に陥っている子もいる。「元気すぎる子もいますが、逆にふさぎこんであまり話しをしない子も、とても恥ずかしがりやの子もいます。ヘリコプターの音を聞いて「水、水」と叫ぶ子もいます。」と、彼女は子どもたちのことを心配している。


ディナは本心からその子どもたちと話しをしようとしている。津波が襲う前から、子どもたちはそれぞれの問題を抱えていた。ずっと黙り込んでいる1人の子どもは、津波の数日前に両親が離婚し、妊娠していたお母さんが生活費を稼ぐために仕事を探さなければならなくなったために、おばあさんに預けられた。「ですから、津波はその子の負担をさらに重くしたのです。悩みを打ち明けられる人がそばにいなくなってしまったのですから。」と、彼女はこの場所にはトラウマのカウンセリングの専門家がいないことを強調しながら言った。


ディナはいろいろ話をして子どもたちの心の負担を軽くしてあげたいと願っている。「私がここに来てから2週間たって、彼らは私を信頼し始め話をするようになりました。そして今では子どもたち同士も一緒に遊んでいます。」子どもたちの心をケアする専門家が被災地には必要だということを知り、今、ディナは将来心理学者か精神科の専門医になりたいという夢を持っている。


(2005年3月31日、2年次ガジャマダ大学留学中・垣野佳苗訳)

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