050110 卒業生・安井博昭訳

2005年1月10日付スランビ・インドネシア紙より

タミさんによるムラボからの証言

あっという間に、高さ12メートルはあったかと思われる黒い大波がムラボのジョハン・パフラワン郡パシーアロン海岸に臨むタミ(40歳)の家を押し流した。タミは両足の自由が利かない身体しょう害者であったため、どうすることもできず、運を天に任せるほかはなく、1キロは波に流された。


タミは、2日前、避難先の南アチェのアルルピナンサマドゥア村の両親の家で、スランビの記者に対し、その瞬間のことを話した。


あの12月26日(日)、修理工であるタミは、掘っ立て小屋といってもいいような自宅の前に腰を下ろしていた。突然、彼は地球がひっくり返ったかのような激しい揺れを感じ、近くの海岸に住む人々の叫びと祈り声が聞こえた。「あの激しい地震の後、私は悪い予感がしました。」彼は、地震が治まった時、すぐに家から出て逃げられるように荷物をまとめるよう、妻に言った。3人の子どもと妻の親も荷物をまとめたが、彼自身は走って逃げることなどできようもなかった。突然、近くの人が「水が昇ってくる!」と叫ぶと、皆が家から飛び出し、パニックは頂点に達し、まるでこの世の終わりのようであった。「あの時、私は、家族をはやく逃がそうとしながらも、何もできず、あとは運を天に任せるほかはありませんでした。」そう語るタミの目から涙がこぼれ落ちた。


高さ10メートルを超える黒い水がタミを巻き込み、彼は水の中で何も見えなくなった。しばらくして、彼は自分の体が波に浮いているのを感じた。あちこちから助けを求める叫び声が聞こえた。弱りきった体は、波にさらわれるまま、時には1キロほども陸の方へ引っ張られ、同じ距離だけ海の方へ戻されもした。それは4回も繰り返された。


「初めに波にさらわれた時、私は水の中に沈められました。ところが、どういうわけか、その後水面に浮かび上がることができたのです。」タミは、何の救命具も身につけていなかったのに、まるで布団の上に寝ているかのように、自分の体が水面に仰向けに浮かんでいることを奇跡だと感じていた。「それに、あれだけ波にさらわれ引きずられたのに、一滴の水も飲んでいなかったのです。」とも語った。


その後、タミは、ある家の2階の屋根に上げられていることに気がついた。そこは、実は彼の家から500メートル程しか離れていないブスタミさんの家の屋根だったのだが、体は力を失い動くことはできなかった。「どのようにしてあの家の屋根に上げられたのか全くわかりません。アッラーのお力によるものだとしか言いようがありません。」と偉大なるアッラーに感謝した。


彼が屋根の上に仰向けに上げられ、水が引き始めてから間もなく、突然、第二の波がやって来た。タミは災いがはやく静まるよう、3度声を振り絞り神に祈りをささげた。結局、彼は疲れきった体を横たえたまま屋根の上で3日間過ごさなければならなかった。タミはそこから降りる力がなかった。体中傷だらけだったし、3日間何も食べられず何も飲めなかったので、弱りきっていたのだ。


12月28日(火)の夕方になってやっと、彼にも助けがやって来た。彼はムラボ上空を旋回するインドネシア国軍のヘリコプターに向かってやっとの思いで手を振った。ヘリがその合図に気づき、彼は国軍の兵士によって救い出された。


しかし、タミの受難はそれで終わりではなかった。彼は屋根から下ろされ、ムラボのチュ・ニャ・ディン病院に運ばれたのだが、何の間違いか、彼は瀕死の状態で何百という犠牲者の遺体に混じって寝かせられたのだ。彼は仕方がないという表情で「傷を治療してもらえるどころか、食べ物も飲み物も与えられませんでした。みんな混乱していたのだと思います。」と語った。


彼は2日間遺体の山の間にいたが、ますます体力が失われ、数時間にわたり気を失ってしまうことがあった。「もう死んだのだと思いました。」彼はそう語るが、12月30日(木)の朝になってついに、ブランピディエに住む兄のムスタファ・カマルが病院の遺体の山の中からタミを見つけた。ムスタファは、病院では何の治療もされない状態を見て、すぐに弟をブランピディエに連れ帰った。


また、離れ離れになった妻、妻の親、3人の子は、長男だけは無事が確認されているものの、他は行方不明のままであり、タミは「すべてはアッラーの御心のままに、私は神のご加護をいただくだけです。」と涙を流しながら語った。


(2005年6月14日、卒業生・安井博昭訳)

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