050103 4年次・安井博昭訳

2005年1月3日付スランビ・インドネシア紙より

シャムスル・カハル氏(スランビ・インドネシア紙編集長)の証言

地震と津波は人々をパニックに陥れた。元コンパス紙記者で、現在スランビ・インドネシア紙編集長のシャムスル・カハルも、ロクスマウェの出張から帰ってきて、バンダアチェに足を踏み入れた時には正気を失ったと言う。彼は、わが子を探してどんな経験をしたのだろうか。


地震が起こった時、私は印刷機の様子を見るためにロクスマウェに出かけていた。その後、私はバンダアチェの家族に電話をかけたが、その時は被害を免れて無事だと言っていた。しかし、私はすぐにマワルディ・イブラヒム副編集長、アクマル・イブラヒム編集部次長と共に、自分の車で急いでバンダアチェへと向かった。


そして、バンダアチェへ向かう途中、壊滅している町の様子を見て、地震の後に津波が襲ったらしいことを知らされたが、バンダアチェに近づくにつれ、町の様子はますます恐ろしいものに変わっていった。


何万人という人々が、裸足で、バイクで、車で、東に向かって逃げていたが、その時にはなぜ人々が東へ逃げているのかが理解できなかった。しかし、バンダアチェにたどり着いてみると、私たちは言葉を失った。市のあらゆる公共施設が消滅し、市の3分の2は全く機能しなくなっていた。すさまじい光景を目の当たりにして、私、マワルディ、アクマルの3人は各々の家族を探すため、ひとまず別れることにした。


だが、とてもではないが自分の家に帰ることなどできたものではなかった。津波とその後の大雨により、あふれる水は腰の高さに達していて、家を目指して倒れては立ち上がりの悪戦苦闘を強いられた。商店は、略奪を恐れた店主がシャッターを下ろしてしまっていたし、瓦礫が散乱しまともに通ることができない道路には人影はなかった。


私は、自分の家までたどり着くことはあきらめ、子どもの住む家がある村へ向かった。そのうちの一つ、やっとたどり着いたランブルク村は無事だったが、そこで子どもたちに会うことが出来ず、また、自分の家のあたりは跡形もなく消え去っているという知らせも聞かされた。


バンダアチェに帰ってきて食うや食わずで歩き回って3日が過ぎ、ついに私は子どもたちに会うことが出来た。どうやら、家があった村は消えてしまったが、皆自分を守ることが出来たようで、子どもたちとその家族の皆が無事であったことを、私は神に感謝した。本当はすぐにでも子どもたちをジャカルタへ連れ帰りたかったのだが、チケットは手に入らなかった。


私の娘リタは、幸運にも彼女の親戚の家へ逃げることができていたが、そこには大変なドラマがあったようだ。地震が起きた時、リタは、外へ飛び出し、そのまま家族と共に外に出ていた。とても家の中へ戻る勇気はなかった。程なく、リタたちは、「水、水!」と人々が叫ぶ声を耳にし、電柱の3倍の高さもある水が迫ってくる信じられない光景を目の当たりにすることになった。啜り泣きや、助けを乞う叫び声があちこちから聞こえ、数隻の帆船が家々を押しつぶしながら住宅地にまで打ち上げられてきた。


リタは逃げ惑う中で、高台に建てられている小学校を見つけた。中に入ってみると、群衆が互いにパニック状態になって階段を駆け上がろうとしていた。リタも群集の中で階段の途中まで来ると、突然誰かに足を引っ張られた。引きずり下ろされると思った時、近くにいた夫が、リタの足を引っ張る男を一蹴し、リタと夫は上の階まで登ることができた。その後、リタは、足を引っ張った男も助けた。そして、10時ごろになって、リタたちは小学校の校舎から降り始めた。15時ごろには水も引き、リタの家は残っていたが、瓦礫の中に埋もれた状態だった。


(2005年3月14日、4年次・安井博昭訳)

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