060602 3年次・道下めぐみ訳

2006年6月2日付コンパス紙より

“フライドチキン”と避難所での一夜

夜8時ごろに食糧援助が来た時、疲れ果てた表情が安堵へと変わった。そしてこれが彼らの人生の中で初めて有名なメーカーのフライドチキンを楽しむ時であった。真っ暗で雨露をしのぐ場所がない中で過ごさなければいけなかったけれども、本当にひとつの贅沢だった。


“明日ハンバーガーがもらえるのかなぁ。”と、パルヤニ(23)は彼女のテントの中で述べた。5月31日水曜日のことである。スプリヤトゥンもまたコメントしながら笑った。“まん丸な形のハンバーガーでしょう。おいしいの?”“おいしいわよ。でも値段が高いのよ。私らには買えっこないですよ。”パルヤニは答えた。


質素で限られている経済は、そのような避難住民たちにとって普通である。彼らの日常はただあり合わせの食事を楽しむだけである。


彼らがこれは高いと見なす食べ物、普通はただテレビのCMで流れているのを見るだけの食べ物を、彼らが本当に楽しめる時は、状況が普通でない時である。そして数に限りがあるので、食べ物一箱を2人から3人で分けざるを得ない時である。
子供と一緒にいる一人の父親は、その衣をかぶったフライドチキンのただ一部分だけを食べた。“全部食べてしまうのはもったいない。この残ったのは明日の朝食用です。”と、輪ゴムで包みを結びながら述べた。


表情が陽気さを示したのはたった30分だけであった。夜はこおろぎの鳴り響く音と共に更けていく。濃い雲は、普段は避難所からの彼らの景色となるムラピ山を見るのを妨げている。


その夜、小雨がゆっくりと降り、慌ててテントへと入る年老いた体に付きまとった。彼らはござの上に体を横たえようとしている。一部だけ閉められたテントは風で揺れ、夜風はますます老人たちのもろい骨を突き刺している。


キドゥール山パトゥック郡ゴロオロ村タワンサリ集落に、彼らの避難所として設置され、空きのたんぼの畦に広がっている4つのテントがある。ここにいる人々はトゥルバッ集落から来た人々である。トゥルバッ集落はグラングラン山の東側のワヤン丘陵の斜面に位置している。およそ40人のトゥルバッ集落の避難住民は、タワンサリ集落からの数十人の他の避難民と合同で避難している。


トゥルバッ集落の住民、スプリヤトゥンは、旧居住地区に住むのが怖いと述べた。なぜなら地震後岩石がしばしば丘陵とグラングラン山の頂上から落ちてくるからである。
彼は土曜日に起こった地震の時に、大きな石が大きな音をたてて落ち、おそろしかった事をまだよく覚えている。周辺の住民は騒ぎ、子供たちは泣いた。


最初の地震が起こってからほんの2時間で、住民たちはタワンサリ集落へ下りる決心し、およそ2キロの距離を徒歩で歩いた。スプリヤトゥンは3人の子供を連れて行くことだけを考え、1枚の服もまた他の財産も持たなかった。「皆本当にパニックでした。だから私たちは何か持って行く事を考えませんでした。とにかく安全な場所を探していたのです。」
パイントゥン(38)、市場で物売りをしているトゥルバッの住民は、2人の子供の無事を確かめるために、すぐに彼の集落行きのトラックに向かったと述べた。


その悲劇の土曜日の朝、住民が安全な場所を探して隣の集落へと続々と下りた時、一部の住民は避難することを拒否した。「幾人かの住民は運を天に任せる事を選びました。もし死ぬ運命なのならば、そう彼らは自分の村で死ぬ事を望んだのです。」と、パイントゥンは語りました。


最初の3日間は避難住民たちにとって地獄のようであった。1日目は普通は米を入れるのに使う袋をござの代わりに敷いて寝た。そして2日目ににわか作りのテントを作った。しかしながら、一晩中降った大雨が彼らをずっと寝させず、そして夜が明けた。


たんぼの端がぬかるみ、老人も子供も寝転ぶことが出来なかった。「一晩中雨が降っていたとき、私たちは皆立っていました。思い出すと本当に悲しいです。私たちは泣き、そして嘆きました。」パルヤニはそう述べました。
おそらく彼らは本当に一晩中寝られなかったのだろう。そこはパニック状態、不幸、そして奥深くにある諦めの気持ちでごちゃまぜになっていたのであろう。彼らは朝初めて地震に驚かされ、苦労は夜になっても終わらなかった。大雨が地面をぬかるませ、それどころか浸水まで起こったので、彼らは一晩中立っていなければいけなかった。


水曜日の夜は、少なくとも避難所での生活の中で、それどころか彼らの人生の中で、最も美しい時間になった。援助が追加され、ボランティアからの食べ物が流れ始めたのである。この地域にはまだ医療援助の手が届いていない結果老人はしばしばリューマチの再発を訴え、子供たちはかゆみの症状にかかった。


そして、もちろんワヤン丘陵の上に建っているすでに崩壊してしまった家に戻り住むことの心配もある。


しかしながら、不自由しようとも、彼らが避難住民と言う“身分”を背負った最初の1日目の時よりも、はるかに幸福であった。その“身分”をいつまで背負うのか、彼らもまた答えることが出来ないであろう。恐怖心とトラウマはあらゆる不足の中で彼らをがんばらせようとしている。


木曜日の朝、4時30分頃、避難住民たちが起き始めた。幾人かの女性たちはお祈りのための水を取り、たんぼを向き、村の道で一緒に祈った。彼女たちはひざまずき、黙祷し、溢れる全ての恐怖心、悲しみ、嘆きを神にささげた。そう、彼らも自然の一部なのである。


(2006年7月4日、ジョグジャカルタ・ガジャマダ大学留学中、3年次・道下めぐみ訳)

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