丹山大樹(ドイツ)

ドイツ・パッサウ体験記

 2004年9月から翌年同月まで、日本の大学では二年生後期から三年生前期にあたる一年間を私はパッサウ(Passau)という町で過ごしました。パッサウは、ドイツ連邦共和国南東部の州バイエルンとオーストリア共和国との国境に位置する小さな町です。その町では東欧と西欧を行き来する旅行者やヨーロッパ各国からの留学生が、色鮮やかな四季の下ゆったりとした時間を過ごします。私も、その町で自分を変えることになる数え切れない程のステキな体験をしました。


絶対に辿り着けない目的地、そして新たな出会い

 ヨーロッパでの長期滞在の中で「初めて」を経験することが多かった一年間は、ドイツでの住まい(寮)まで辿り着けるかという問題から始まりました。大学一年生の時は体育会に所属し、とても優秀とはいえない成績のまま交換留学を決心した私は、パッサウ大学からの重要なメールも迷惑メールだと決めつけ処分してしまい、出発間近になって急遽ドイツの大学に無理を言って寮を決定するという始末でした。出発の前日まで昼夜遊び呆け、寮の場所、鍵の手配などの必要事項を何も考えずに、後にドイツ留学を思い返すにあたり欠かせない存在になる京都産業大学の二人の友人と大はしゃぎしながら、旅行者気分でフランクフルトへ出発します。 到着後フランクフルト空港から目的地パッサウへの電車に乗れないと「日本出国後二日目にして迷子」という羞恥の実態に陥ることをさとると、旅行者気分から一転してサバイバー気分へと変化したことを鮮明に覚えています。やっとの思いでチケットを購入しましたが、ドイツの電車座席のシステムも理解出来ず、パッサウまでの6時間「トイレ前」という素晴らしく迷惑な場所に陣取り、ただ目に入る壮大な景色に唖然としていました。

 パッサウの小さな駅になんとか到着した私たち三人は、私たちにとって神のような存在になるドイツ人フェッリクスと出会います。彼は、私の入学前に京都産業大学で日本語を勉強したこともあり、今期留学の私のチューター(世話役)を引き受けてくれていました。

 ドイツ到着一日目にしてドイツ語に悪戦苦闘していた私にとって、「はじめまして。今日は寮まで一緒にいきます。鍵も私が持っています」という言葉は神の言葉のように感じずにはいられませんでした。こうして、わからないことばかりであった初日を乗り越えた私は、数々の新しい運命的な出会いが待っていることも知らずに、到着出来たという安堵から、すぐに床に就きました。

 その後二週間、昼は諸手続き(ビザ取得、銀行口座開設、大学での入学手続きなど)をフェリックスと共に行い、夜は地元のクナイペ(居酒屋やみたいなもの)で飲んでは寝るという生活を繰り返していました。しかし、新しい土地での生活は想像以上に辛く、特に、言葉の壁は大きく、言いたいことが伝わらないという悔しさと歯がゆさは私の体重を奪っていくばかりでした。

 後に私は大学の講義、空き時間は語学学校と一日中ドイツ語を話さなければいけない環境に身を置き、夜のダンスクラブでも電子辞書を持ってわからない単語はメモするなど、ドイツ語向上に集中するようになります。

 

 ようやく新しいベッドに慣れ始めた頃、一人下着姿で(二人部屋でしたが、一人で貸し切りと思い込んでいたため)昼食を食べていると、いきなりドアを開け誰かが入ってきました。下着姿で初対面を迎えてしまったのは、私の共同生活のお相手であるハンガリー国籍のビロ君。私より年上で学位を取得するためにドイツへ来ていた彼は、ドイツ語が堪能で朝には決まってバイオリンを弾く大変真面目な方でした。こうして私はドイツでの一年間を、ビロ君とキッチン、リビング、バスルームを二人で共同使用(ルームシェア)するという形で、家族以外とは体験したことがなかった共同生活をすることになったのです。これまでに全く付き合いが無く、違うことが当たり前の二人が共同生活をすることは、容易ではなく、無論楽しい時の思い出の方が多いですが、苦労もありました。

 例えば、勉強をしながら喫煙をする習慣があった私は、当然室内は禁煙というビロ君の意見と衝突しました。タバコの臭いは、非喫煙者のビロ君からすれば、我慢できるものではなく、話し合った結果、ベランダでの喫煙に同意しました。そしてビロ君には、その交換条件として、週末の朝8時からバイオリンを弾くのは控えてもらいました。何せ週末の午前中ぐらいはゆっくり寝たかったものですから。また、潔癖症といっても過言ではないぐらい掃除を徹底する彼は、キッチンまわりの清潔さについて私にいつも説教しました。しかし、彼も汚くするときはするのです。そこで、余裕があるときはビロ君の食器も洗うなど、自ら率先して掃除することを心掛けました。その結果、お互いが助け合う関係を築くことが出来、それが良い関係を築く大きなきっかけとなりました。

 住み始めた頃は、毎日相手に気を使わなければいけないという不慣れなことに、気が休まず、疲労感が高まるばかりでしたが、「疑問があれば尋ねる」「少し騒々しくなる時は、一言断る」など、相手のことを意識して生活することで、次第に兄弟の関係のように親密に付き合えるようになりました。朝食、夕食、週末の日向ぼっこなど、一緒に時間を過ごすことが多かった彼は、心の支えとなってくれるだけでなく、言葉・文化・ハンガリー料理など様々なことを教えてくれました。 このような経験は、私に視野を広げる大きな機会を与えてくれました。中でも、人と人の間に国籍は関係なく「思いやり」が大切であることを再確認できたことは大変嬉しく、更に強く生きようとする現在の私の原動力にも繋がっています。一人暮らしの楽しさや気楽さはありますが、共同生活でしか得ることが出来ない経験は忘れ難い良き思い出となりますので、一度は経験する価値があると思います。

ドイツ語試験

 ドイツ留学前、私は体育会に所属していたため、まともに講義に出ることが出来ず、とても優秀とは言い難い成績でした。しかし、現地で感じた「意思が通じない歯がゆさと悔しさ」をバネに、昼は語学学校と大学、夜はパーティやビロ君とのレッスンにて英語ではなくドイツ語力の向上に励むことで、結果としてZMP:Zentrale Mittelstufenpruefung(ドイツ語中級統一試験=おおよそ、ドイツで大学入学のために要求される語学試験レベル)そしてドイツ語技能検定(通称:独検)2級に高得点で合格することが出来ました。  パッサウ大学では、地理学や文化論、そして日本で専攻していた言語学、更には哲学を専攻しましたが、講義はもちろんドイツ人向けですので、大変苦労しました。哲学の講義では、履修を断られることもありましたし、講義中に勉強不足について叱咤されることもありました。本当に辛かったです。それでも、なぜ大学に行き続けたのか。それは、講義で感じる楽しさが日々増していったからです。 パッサウにある語学学校では、大学での私の時間割を考慮してもらうことが出来、空き時間にドイツ語だけを集中的に勉強することが出来ました。夜のパーティでは、周囲の目も気にせずに紙とペンを持参し、知らない単語はメモしていました。私の知り合ったドイツ人たちは大変寛大な人が多く、ダンスクラブにて様々な音が鳴り響く中、スペルまで丁寧に教えてくれました。日々些細なことでも、こうしてドイツ語を意識して生活することで、自分の語学力が向上していくのを実感出来、それが講義の楽しさに繋がっていったと考えています。 これからドイツ語を初めて学ぶという人でも、努力すれば大学入学のドイツ語レベルには速く到達することが可能だと思います。新しいことを始めたいと考えている人は、是非ドイツ語学習に挑戦してみてください。

バイエルン

 パッサウでは、旅行者や学生の他に年輩の方が多く、そのほとんどの方が比較的強い方言を話し、生活しています。初めは、その方言のきつさも判断出来ませんでしたが、ドイツ人(ボン出身)の友人でも理解できないと言った時には、さすがに驚きました。このような地域でドイツ語を(勿論、語学学校では所謂標準語を学びます)学び、パッサウの自然の中で育った人と交流を深めていた私は、ドイツ語圏内の旅にでることで、更に驚きました。北ドイツの人々が話す言葉は挨拶から違い(正確には南ドイツの人々のほうが標準語とは違う挨拶をします)、人々の態度も違う。ビールの味も勿論違います。それは、北ドイツの人々にだけ言えることではなく、ドイツ全域、そしてオーストリアの人々にも同じことが言えます。 日本の場合を考えても、地域によって言語や食べ物が違うことが当然ですが、私がドイツにいて肌で感じたことは、バイエルンという地域は、とても温厚で伝統を重んじ、イベントには溢れんばかりの情熱を注ぐ人が比較的に多いということでした。中でも、世界で有名なミュンヘンのOktoberfest(オクトーバーフェスト:ビール祭り)では圧倒的なバイエルンの楽しさを味わうことが出来ます。そこでは、バイエルン特有の衣装に身を包んだ人々がビールを片手に歌って踊り、私たちを中世の時代へ連れていってくれます。特徴的なビール(ジョッキは、マースと呼ばれる1リットル入りのグラスです)は大変美味しく、ドイツ人がなぜ日中から飲むのかがよく理解できます。ちなみに私は3杯(3リットル)で気分がよくなってしまい、芝生で寝入ってしまいました。 (実際にドイツへ足を運び体感してみて下さい。その方が楽しいと思いますし、より理解できると思います)

 バイエルンは、国政や観光、そしてサッカーでも強い力を持っています。この地域で一年間学べたことは、私にとって大変幸運なことでした。私が出会った、温厚で伝統を重んじ、時には情熱を注ぐ彼らは、大変勤勉で、政治、経済、文化、エンターテイメントなど様々なことにアンテナを高く張り、各事象に対し自分の強い意見を持っていました。このような意見は、「知りたい」「学びたい」といった姿勢から生まれ、その意見を互いにやりとりすることで洗練されたものだと、彼らから学ぶことが出来ました。また同時に、戦後の強いドイツをつくり上げる要因として、このような国民の強い自主的な意識は必要不可欠だったのかもしれないと感じずにはいられませんでした。昨今、日本では若年層の政治に対する無関心さがメディアで取り上げられています。ドイツで感じた、「一人の人間として、また日本国民として、私も様々なことを知らなければならない。勉強しなければならない。」という気持ちは、大学最終学年における学習の大きなモチベーションとなっています。  私がドイツの滞在にて大きく感じたことは上記で挙げた通りですが、感じることは十人十色だと思います。私の友人も音楽に没頭し、音楽に対する考えや必要性などを見つめ直す最適な機会になったと聞いています。自分だけの何かを感じることが出来るのも、このような機会なのかもしれません。

これからドイツ語を学ぼうとする皆さんへ

 ドイツ留学後、就職活動前(大学四年生になる少し前の時期)に少しだけでも社会に触れることで自分の将来をより明確に考えたいと思った私は、英国に一年間滞在します。ドイツ人も多く、英語とドイツ語を使うことが出来ると考えたことから、渡英を決め、現地では二つのインターンシップに参加していました。

 そこで感じたことの一つに、英語の必要性とドイツ語の重要性が挙げられます。英語は話せて当たり前とされる今、自分のスキルとしてドイツ語を話せるということは、周囲の反応もポジティブに変化しますし(就職活動においても評価の対象になります)、何より、自分の行動範囲が広がります。行動範囲だけで考えると、フランス語、スペイン語、中国語といった言語の方が、有利かもしれません。しかし、ドイツ言語圏の国々が持つ強み(例えば、環境・車・機械産業、バロック・ウィーン古典派・ロマン派音楽、更には大戦以前の歴史やヨーロッパを語るに必要な文化など)を考えるとドイツ語を話す強みも自ずと見えてくると思います。

 現在、私はドイツ語を学ぶことができて、大変幸せだと感じています。就職内定先もドイツ系の会社に決まり、ヨーロッパの大国であるドイツと深く結びつき、日本とドイツの両国、そして世界の発展と平和に少しでも貢献していきたいと考えています。まだ見えぬ未来に不安を感じることが多々あるかもしれませんが、きっかけは何でもいいと思います。まずは行動することが大事だと私は自分の少ない経験から思います。

 京都産業大学のドイツ語学科は、経験豊かで指導に卓越された先生方のもと、各学生が活き活きと学んでいます。当学科に所属する学生は、私も含めドイツ語圏や英語圏の国へ留学したり、スポーツに打ち込んだりと自由闊達に貴重な学生時代を謳歌しています。

 進路決定という大事な分岐点で、京都産業大学外国語学部ドイツ語学科には、こんな学生もいるということを知って頂き、選択肢として考えて頂くことが出来れば大変嬉しく思います。

 最後に、本ページを書き終えるにあたり、京都産業大学、ドイツ語学科の先生方、そして友人や家族に、改めてお礼申し上げます。私を変えたドイツでの一年間は、皆様のお力添えがあったからこそ体験出来た、忘れることが出来ない記憶の1ページです。

 

外国語学部ドイツ語学科
丹山大樹

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