私の中国人像 (K.K)

K.K


中国人が人と交流する時に、中国人とたばこは切っても切れない間柄であるように思える。私の見るところでは中国の喫煙率は世界一だと思う。


中国の諺に『煙酒不分家』というのがあるが煙草と酒はどれが誰のものというものではないというような意味合いだとおもう、これをみて分かるように中国人は食事の時や宴会の時など人と交流をはかるときに酒やたばこを勧めるのが習慣であるらしい。相手がたばこを持っていても自分が吸うまえに自分のたばこを勧め、お酒も、自分が飲む前に相手に飲むよう勧めるというのが習慣であると聞いた。であるから、喫煙者は非喫煙者に比べて友人と交際するのが楽であるのだそうだ。


しかし最近では、このような習慣は健康に悪い影響を及ぼし、もともとたばこを吸わない人までが吸うようになり、止められなくなるという原因からこれを嫌って嫌煙者も増えている。


中国人の挨拶は、挨拶代わりにたばこが飛んでくることがしばしばあり、知らない人はとんでもなく失礼な奴と思うのだけれど、これが親しみを持った男の挨拶なのだそうだ。


私も喫煙者なのであるけれど、北京から西安に行った際の列車の中やタクシーの中などで、喫煙するという事で興味を示されてまわりの中国人たちと話がはじまり仲良くなれた。北京の1年の留学中にこのような出来事がしばしばあった。こういう時は必ずと言っていい位、いつも、「吸うか?」とタバコを勧められ断るのも失礼だろう、と思って頂くようにしている。


しかし、中国タバコはタールやニコチンの量がすさまじく多くて16ミリや、18ミリグラムといったものがザラであるからむせてしまう。最初は外国人であるという事で興味を示されているだけだ、と思っていたのだが、しばらく話を聞いていると女性がタバコを吸うというのが珍しいのだという事に気づいた。


そう言われてみれば、中国の女性がたばこを吸っているのを見たことがなかった。中国では女性はたばこなんて吸わないものらしい。列車で出会った中国人のおじさんは「親はお前がタバコを吸うのを知っているのか?ああ、自分だったらとても娘がタバコを吸うなんて耐えられない。」なんて嘆いていたし、交流していた中国人の女の子によると、「中国の女性はタバコなんて吸いません!吸っている人もいますが、それはそういう商売の女の人です!」と言っていた。


現在の中国は日本に比べて3年遅れているとか10年遅れているとかいろいろ言われているが、私が小さい頃は、日本の女の人はまだあまりタバコを吸わなかったような気がするし、吸っている人を見かけると珍しく思った事もあるような気がする。それは日本ではどんどん男女の格差が縮まっているせいもあるだろう。そう考えると、中国は未だ男尊女卑の傾向も残ってはいるようだけれど、今は女性が社会に進出していく発展途中で目まぐるしく中国という国自体が成長していく過渡期であるから、あと何年かしたらタバコを吸う女性を見かけることも珍しくなくなるのかもしれない。


市内ではあちらこちらに様々なたばこの空き箱を積み上げてオブジェのように看板代わりにしたたばこ屋さんを見かけるが、外国たばこは日本で買うよりはるかに安い。例えば、「マイルドセブン」は「七星」といって1個11元(約157円)で売られているし、マルボロなどもほぼ同様の値段で売られている。これは、たばこに掛かる税金が安い為、庶民的な値段になっているそうだ。しかし、ヤミたばこも多数あるので注意が必要で、偽物から密輸の物まであるので大きな百貨店で買うのが一番安全であるようだ。


こちらに来てからは、北京の日本人留学生の大半は北京の名産の「中南海」という銘柄のものを吸っている。これはきつい中国たばこの中ではかなり軽いので吸いやすく、値段も70円ほどで買える。私は一度、「中南海」の偽物をつかまされ、いつもと何か違う、と思って分解してみたらなんと入っているはずのフィルターが入っていなかった。


中国タバコはフィルターがついていないものが結構多く、こんなに体に悪そうなものを年中吸っているのに中国人は以外にお年寄りも元気いっぱいだ。やはり朝早くから公園に集まって太極拳や体操などをしているせいだろうか。私の学校のグラウンドでは毎晩おばあさん達が曲に合わせて踊っており、面白かった。


中国人は偽物を作るのに命をかけている、といってもいい位中国では偽物が氾濫している。たばこのみにとどまらず、海外有名ブランド品や日本のキャラクター商品、CDなど、ほとんど偽物と分からないようなものが驚くほど安い値段で公然と売買されていて、果ては偽札まで出回っていて私も何度か偽札をおつりに紛れて渡され悔しい思いをした。偽物商品のメッカともいえる北京の秀水マーケットでは、連日、白人旅行客であふれかえっているのを目にする。


秀水マーケットに買い物に行くとそこの売り子の人々はすごく愛想がよく、買うようなそぶりを見せると大抵「あなたは友達だから安くしとくよ!」などと言ってくる。私はいつからこの人と友達になったのであろうか?という風にひどく違和感があった。


中国人の友達論というのは、初めは日本人の私の感覚とはかなり格差を感じることがあった。スーパーに買い物に行くとあちらこちらの商品の上に「贈朋友」なんていうコピーがついており、テレビをつけると“観衆朋友nin2好!”、ラジオをつけると“聴衆朋友nin2好!”の声が聞こえてくる。これらを日本語に訳すとしたらどうしたらいいのだろう?一番耳触りのいいのは「視聴者の皆様こんにちは」といった所だけれど、これでは“朋友”の部分が抜け落ちてしまう。それでは正確でないので、“朋友”を無理に入れると「視聴者の友人の皆様こんにちは」なんていう、おかしな表現になってしまう。


恐らく、日本にはこのような場面で「友人」を使う習慣はなく、これは中国独特の表現なのだ。中国の社会はいわば友人社会であり、家族や親戚は別として中国人は友人に対して最大限の便宜を計ろうとする。例えば、電話線が引けない、列車の切符が買えない、ホテルに泊まりたいが部屋がとれない、車を買いたいがお金が足りない、といった身近なことから、会社の運営が順調に行かないといった大きな事に至るまで、物事がスムーズに運ばない時に必要なもの、それは“朋友”の助けなのであろう。


私が大連へと旅行へ行った際、私と友達はなぜか留学生という身でありながら列車の軟臥という、いわばビジネスクラスの快適な寝台席に乗ることとなった。そこで隣の座席であった大連へ帰省途中の中国人の中年女性は、しばらく話をしていて私達がまだホテルのあても帰りの切符のあてもない事が分かると、「私が大連のオススメホテルまで案内してあげるわね。」と言ってくれた。私達は感謝の意を伝えたものの、出会って間もない、そしてこれ以後たぶん会う事もないだろう自分達にこの人がそこまでしてはくれないだろうなんて考えていた。


しかし大連に着くと女性は、「私についていらっしゃい」と本当にそこのホテルへ連れて行ってくれた。その女性は結構上流階級の人だったのか、紹介されたホテルは予算をはるかに上回った4ツ星ホテルで結局自分達で止まる場所を探すことになったのだけれど、日本人にはないような中国人の世話好きさに触れて中国人の考え方もいいなと思った。


十何億の民衆が生活し、日本ほど生活に便利なシステムが構築されていない現在の中国において、“朋友”は一種の潤滑油として作用しているといえるのだろう。しかし、ある人にとって“朋友”が存在するということは、同時に“朋友”でない人もまた存在するということになるのを忘れてはならないだろう。テレビやラジオでさえその第一声で「相手が友人であるのかかどうか」を暗に確認している位なのだから、私が“朋友”であるかないかは中国人にとって極めて重要であり、その結果いかんで私の受ける対応が天と地ほどに違ってくることもありえなくないのだ。


現代の日本では自分の事は自分で解決するのが当たり前であって、他人に干渉される事をあまり好まない傾向がある中、中国人の、友達ならば頼って当たり前、頼られて当たり前という考え方に触れる事ができたのは私にとって珍しくもあり、貴重な体験であった。


中国は戦後の日本がそうであったように、現在、高度経済成長の真っ只中にある。これから経済が発展してゆき、社会主義から資本主義の風潮になっていってもこの友達感は変わらないでいて欲しいと私は思う。

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