学生のみなさんへのメッセージが届きました!

中谷 剛
略歴  「1966年兵庫県神戸市生まれで、ポーランド国立オシフィエンチム博物館(国立アウシュヴィッツ博物館)外国人公式ガイド、通 訳・翻訳家(日本語・ポーランド語)。神戸市生まれで、その後、親の転勤で栃木県足利市で子ども時代を過ごす。京都産業大学経営学部の学生時代の1987年、初めてポーランドに旅行。3年間の会社勤めを経て、退職。再びポーランドに赴き、1991年よりポーランドに移住、1997年オシフィエンチム博物館公式ガイド資格を取得。2008年現在、ポーランド共和国オシフィエンチム市在住。」


本学部OBで、ポーランド国立アウシュヴィッツ博物館の
外国人公式ガイドとしてご活躍中の中谷剛さん

 冷戦時代の東欧で民主化運動がもっとも盛んだったポーランド。その南部にオシフィエンチムという人口3万人あまりの田舎町があります。私がそこに身を置いてまもなく20年。もしその街にアウシュヴィッツというドイツ表記がなければ有名になることも私の存在理由もなかったでしょう。

 1939年9月1日、ヒトラー総統率いるドイツがポーランドを侵略したことで第二次世界大戦が勃発しました。圧倒的な戦力の優位さからまたたくまにポーランド全土を占領したドイツは強制収容所を各地に建設したのです。

 その一つがアウシュヴィッツです。ここを生還できた人は10人に1人。少なくとも110万人が犠牲になったと言われます。その多くは欧州各地から連行されてきたユダヤ民族であり、なかにはスラブ民族のポーランド人やロシア人、今日ではロマと呼ぶ通称ジプシーの人々もいました。知的障害者や同性愛者、エホバの証人の信者も含まれました。

 ショアやホロコーストの呼称で知られるユダヤ民族のジェノサイド(大虐殺)にはガスが使われました。アウシュヴィッツに到着した75%の人々は収容されることもなく、そのままチクロンBという害虫駆除剤で窒息したのです。この人類史上例を見ない犯罪は20世紀の負のキーワードとして、同時期の輝かしい科学技術発展の功績に水をさしました。

 あれから65年を経た今日、その負の遺産を未来のために利用できないかと模索する姿がここにあります。国立アウシュヴィッツービルケナウ博物館です。戦後まもない1947年に公開された当館は79年にユネスコから世界文化遺産の指定を受けて現在に至ります。その間さまざまな葛藤もありました。

 第二次世界大戦後まもなくドイツは分割され、資本主義陣営の西欧と社会主義体制の東欧で冷戦が始まりました。20世紀のもう一つの悲劇の象徴である広島や長崎で投下された原爆が米ソ間で再利用される可能性さえあったのです。強制収容所の歴史に正面から向かい合えない社会情勢が長く続いたのでした。

 その転機が1989年にやってきました。冷戦終結、ベルリンの壁崩壊、東欧の民主化です。私はそのころ京都産業大学経営学部を卒業しました。在学中に欧州を横断する1人旅に出て自由のない社会に生きる冷戦の壁の向こう側の学生たちと出会ったので、東欧から伝わってくるニュースに心が躍りました。だから、あの学生たちと再会しようと勤務先に無理を言って再訪することにしたのです。

 現地で生活することを決心してから、自由を奪回した当地の人々からさまざまなことを学ぶことができました。その一つがアウシュヴィッツ強制収容所の歴史伝達についてです。被害者のユダヤ民族はもちろん、ドイツ人をはじめヨーロッパの人々にとても重くのしかかる暗い歴史。彼らはそのことをどのように受けとめどういった目的で次世代に伝えていこうとしているのでしょうか。私はその現場でガイドとして体験しながら観察できないものだろうかと考えました。今から12年前のことです。

 国立アウシュヴィッツービルケナウ博物館の訪問者数が昨年、過去最高を記録しました。夏場の館内は人の熱気でむんむんするほどです。ヨーロッパの言語が入り交ざるなかで若者の姿が目を引きます。各地からポーランドまでやって来て学校のクラスごとに見学することも多いです。

 このような交流は東西冷戦終結を通してEU(欧州連合)拡大でより活発となりました。歴史認識も欧州共通のものとなりつつあります。社会主義体制の長かったポーランドでは2000年ごろまでユダヤ民族のジェノサイドに関する詳しい歴史表記は教科書に見られませんでした。他の欧州諸国もヒトラー総統率いるドイツの戦争犯罪だったという認識にとどまり、犠牲者であるユダヤ民族のなかでは我々にしかこの痛みは理解できないという心情が一般的でした。 そんなとき、ポーランド人であるヨハネ・パウロ2世がキリスト教とユダヤ教の関係改善を担うかのごとくデリケートな宗教問題に光をあてました。ローマ法王は戦時中、友人のユダヤ教徒を多く失っていました。そしてキリスト教の指導者としてユダヤ教徒の会堂であるシナゴーグで祈りを捧げることになります。イスラエルの人々でさえこの画期的な行動に驚いていたほどです。

 EU拡大によるヨーロッパ人の歩み寄りとユダヤ教とキリスト教といういわば兄弟間の関係改善は、ジェノサイドというこの暗く、重い歴史を未来への警鐘として次世代へ伝えるための条件となりました。その後、博物館の訪問者数は年々飛躍的に増加しています。

 我々アジアからはどうでしょうか。韓国人の姿がよく目に入ります。日本人の見学者の4倍にあたる年間3万人以上です。彼らはどのような心境で当地を見学しているのでしょうか。中国やシンガポールからの見学者数も日本人とほぼ同じです。あるとき私は韓国人の新聞記者からインタビューを受けました。「あなたはどうしてここで案内しているのですか?」

 「ヨーロッパの人々が戦争犯罪の歴史をどのように受けとめどういった目的で次世代に伝えているのか学んでいます。将来のアジア地域の関係を考えるうえで大切なことだと思います」と答えると、ややほっとしたような顔を浮かべて「日本人はどのような感想を述べていますか?」と質問を続けました。「まちまちです・・・」そのときの新聞記者の期待外れの表情が印象的でした。

 アウシュヴィッツービルケナウ博物館を訪れる日本人が私たちの社会の一般像だとは言いがたいでしょう。むしろ旅の一コマにこうした場所が入らない日本人が多いのは、戦争遺産を訪れる目的が見えないからではないでしょうか。そのような環境に育ってこなかったからではないでしょうか。経済成長を通じて問題解決が可能な社会だったからかもしれません。

 いずれにしても社会状況が変わってくれば私たちの価値観も変わらざろうえません。歴史に学ぶときがそろそろやってきたのではないかと私は思っています。

 2010年3月22日 オシフィエンチムにて

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