聖護院八ッ橋総本店社長 鈴鹿 且久さん × 山田 幸代さん対談

※所属・肩書は取材時のものです。(2013年11月)

鈴鹿さんが学生の頃の京都産業大学もとても活気があったのではと思うのですが、 いかがでしょうか。

その頃は学生運動・学生闘争があった頃でしたので、他大学では大学が学生を学内に入れないという状況でした。当時、卒業式があったのは京都産業大学だけだったと思います。

そういう学生運動が当たり前の時代に「勉学に励め」というのが荒木先生のお話でしたから、私たちは勉学に励み、楽しい大学生活を送らせていただきました ね。同年代の他大学に通っていた方に聞くと、なかなか勉強のできる環境じゃなかったということです。そういうところから見ても、京都産業大学は素晴らしい 大学でした。京都産業大学は、学生がこれから社会に出るための『教養』と『経験』を積んでいくという場でしたので、非常に楽しく過ごすことができました。

その中でも何が一番良かったかというと、当時の大学の先生方が素晴らしかった。特に、経営学の柳原 範夫先生は、私の人生観を変える素晴らしい先生でした。非常に親しみ深くて、ある時は厳しく、ある時は優しく、本当の教師と思える方でした。授業が終わっ てからもお付き合いがあって、一緒になって大学生活を過ごしていただきました。卒業してからは柳原範夫ゼミのOB会長までやっていましたね。亡くなられる までずっと続いて、結局900名くらいの会になりました。

皆、当時は学生運動が盛んだったと仰られていましたが、京都産業大学に行って社会勉強ができるというのは魅力だったんですね。学生時代の経験が今のお仕事にどのようにつながっていると思われますか?

私は就職せずに自営業を継ぎました。友人関係に非常に恵まれましたし、学生運動など大変な時代でしたけれど京都産業大学が落ち着いていましたので、気持ちもゆったりして就職することができましたね。

私たちの時代はアメリカの経営学である「戦略経営」を唱える方が多かったですが、そのやり方ではいつか頭を打つと私は疑問に感じていました。京都は守る経 営なので、いかに長く続けるかという経営です。大きくする経営ではなかったんですね。当時は広告にもありましたが、「大きいことはいいことだ」という風潮 でしたが、私はそうじゃないという疑念を持っていました。拡大戦略政策は、何もしなくても売り上げがどんどん上がっていくけれども、どこかで躓く。それが バブルの崩壊です。そんな時、柳原先生から「中小企業論」を教えていただいて、まさに私が疑念を持っていたことを指摘されたんです。そういうところから も、柳原先生の経営学は本当に素晴らしかったと思います。

京都の“守る経営”というのは興味深い話ですね。

「何年続けるか」、ということになると経営の方針が「続ける」ことになります。新商品を作っても、百年はもつ商品を作っていますし、それはあくまでも企業を「続ける」ために作っていることです。何かが流行っても、その流れに乗るような商品は作りません。

私は会社の経営を「提灯経営」といっていまして、伸びるときはいくらでも膨らませばいいし、またいつでもしぼませる体制を作っておく。そうしないと続かないんです。膨れきってぱーんと破裂したらだめですから。

八ッ橋が売れなくなってきたら、50年でも100年でも待って、また八ッ橋が売れる時代になったら売ればいい、そう思います。

最後に学生へのメッセージをお願いします。

これから厳しい時代になっていきますから、遊ぶことも非常に大切でしょうけれど、学ぶことの大切さを知ってほしいです。

卒業後、就職してしまったらそれでいいわけではなく、そこからの努力もあとの社会で生きてきます。大学での4年間というのは本当に短いですから、勉強する ための体制作りをしておいて、卒業してからいろいろチャレンジしたらいいと思います。土台がなければチャレンジできないですから。

それに学生さんには何かを残そうとするのではなくて、結果的に残ったというようにしてほしいですね。また、社会に出たら人間関係が大切なので、何かを成そうとすることで空回りして、人とのつながりを壊したりしないようにはしてもらいたいですね。

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